・・・その日町へ出るとき赤いものを吐いた、それが路ばたの槿の根方にまだひっかかっていた。堯には微かな身慄いが感じられた。――吐いたときには悪いことをしたとしか思わなかったその赤い色に。―― 夕方の発熱時が来ていた。冷たい汗が気味悪く腋の下を伝・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・ただ、木槿だけは、きらいです。」 私は自分が浮き浮きとたくさんの花の名をかぞえあげたことに腹を立てていた。不覚だ! それきり、ふっと一ことも口をきかなかった。帰りしなに、細君の背後にじっと坐っている小さな女の子へ、「遊びにいらっしゃ・・・ 太宰治 「めくら草紙」
・・・片側は人の歩むだけの小径を残して、農家の生垣が柾木や槙、また木槿や南天燭の茂りをつらねている。夏冬ともに人の声よりも小鳥の囀る声が耳立つかと思われる。 生垣の間に荷車の通れる道がある。 道の片側は土地が高くなっていて、石段をひかえた・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・その鮮やかな色の傍には掛茶屋めいた家があって、縁台の上に枝豆の殻を干したまま積んであった。木槿かと思われる真白な花もここかしこに見られた。 やがて車夫が梶棒を下した。暗い幌の中を出ると、高い石段の上に萱葺の山門が見えた。Oは石段を上る前・・・ 夏目漱石 「初秋の一日」
・・・ 大変ものやわらかに、品のいいような快さを感じるとともに、年に似合わない単純さに、罪のない愛情を感じて、尨毛だらけの耳朶を眺めながら自ずと微笑まれるような心持になるのである。 禰宜様宮田は至って無口である。 どんな諷刺を云われよ・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・その直ぐ向うは木槿の生垣で、垣の内側には疎らに高い棕櫚が立っていた。 花房が大学にいる頃も、官立病院に勤めるようになってからも、休日に帰って来ると、先ずこの三畳で煎茶を飲ませられる。当時八犬伝に読み耽っていた花房は、これをお父うさんの「・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
出典:青空文庫