・・・お児は四つでも箸持つことは、まだほんとうでない。少し見ないと左手に箸を持つ。またお箸の手が違ったよといえば、すぐ右に直すけれど、少しするとまた左に持つ。しばしば注意して右に持たせるくらいであるから、飯も盛んにこぼす。奈々子は一年十か月なれど・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・感情の一進一退はこんな風にもつれつつ危くなるのである。とにかく二人は表面だけは立派に遠ざかって四五日を経過した。 陰暦の九月十三日、今夜が豆の月だという日の朝、露霜が降りたと思うほどつめたい。その代り天気はきらきらしている。十五日が・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ほんとに娘をもつ親の習いで、化物ばなしの話の本の中にある赤坊の頭をかじって居るような顔をした娘でも花見だの紅葉見なんかのまっさきに立ててつきうすの歩くような後から黒骨の扇であおぎながら行くのは可愛いいのを通りすぎておかしいほどだ。それだのに・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・はじめて家を持った時、などは、井筒屋のお貞(その時は、まだお貞の亭主の思いやりで、台どころ道具などを初め、所帯を持つに必要な物はほとんどすべて揃えてもらい、飯の炊き方まで手を取らないまでにして世話してもらったのであるが、月日の経つに従い、こ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・が、伊藤八兵衛の智嚢として円転滑脱な才気を存分に振ったにしろ、根が町人よりは長袖を望んだ風流人肌で、算盤を持つのが本領でなかったから、維新の変革で油会所を閉じると同時に伊藤と手を分ち、淡島屋をも去って全く新らしい生活に入った。これからが満幅・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・それだによってわれわれのなかに文学者になりたいと思う観念を持つ人がありまするならば、バンヤンのような心を持たなくてはなりません。彼のような心を持ったならば実に文学者になれぬ人はないと思います。 今ここに丹羽さんがいませぬから少し丹羽さん・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・その一例を挙げますれば日本国の二十分の一の人口を有するデンマーク国は日本の二分の一の外国貿易をもつのであります。すなわちデンマーク人一人の外国貿易の高は日本人一人の十倍に当るのであります。もってその富の程度がわかります。ある人のいいまするに・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
だんだん寒くなるので、義雄さんのお母さんは精を出して、お仕事をなさっていました。「きょうのうちに、綿をいれてしまいたいものだ。」と、ひとりごとをしながら、針を持つ手を動かしていられました。 秋も深くなって、日脚は短くなりました・・・ 小川未明 「赤い実」
・・・火でもつけられたりしてはたいへんだ。早くどこかへ追いやってしまわなければならぬ、といったものもありました。子供は毎日爺の手を引いて町へ入ってきました。そして戸ごとの軒下にたたずんで、哀れな声で情けを乞いました。けれど、この二人のものをあわれ・・・ 小川未明 「黒い旗物語」
・・・ 為さんはその顔を覗くようにして、「お上さん、親方は何だそうですね、お上さんに二度目の亭主を持つように遺言しなすったんだってね?」「それがどうしたのさ?」「どうもしやしませんが、親方もなかなか死際まで粋を利かしたもので……それじ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫