・・・なんだか面倒になりそうだから、おれは十五に相当する金をやった。部屋に這入って見ると、机の上に鹿の角や花束が載っていて、その傍に脱して置いて出た古襟があった。窓を開けて、襟を外へ投げた。それから着物を脱いで横になった。しかし今一つ例の七ルウブ・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・間もなく彼はチューリヒのポリテキニクムへ入学して数学と物理学を修める目的でスイスへやって来た。しかし国語や記載科学の素養が足りなかったので、しばらくアーラウの実科中学にはいっていた。わずかに十六歳の少年は既にこの時分から「運動体の光学」に眼・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・「ここの経済は、それでもこのごろは桂さんの収入でやっていけるのかね」私はきいた。「まあそうや」雪江は口のうちで答えていた。「お父さんを楽させてあげんならんのやけれどな、そこまではいきませんのや」彼女はまた寂しい表情をした。「・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・網を張っておいて、鳥を追立て、引かかるが最期網をしめる、陥穽を掘っておいて、その方にじりじり追いやって、落ちるとすぐ蓋をする。彼らは国家のためにするつもりかも知れぬが、天の眼からは正しく謀殺――謀殺だ。それに公開の裁判でもすることか、風紀を・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・しかしだれもいないところでふれたって売れる道理はないのだから、やっぱりみんなの見ているところで怒鳴れるように修業しなければならない。 それからだんだん、ふれ声も平気で言えるようになり、天秤棒の重みで一度は赤く皮のむけた肩も、いつかタコみ・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・ 去年の春、わたくしは物買いに出た道すがら、偶然茅葺屋根の軒端に梅の花の咲いていたのを見て、覚えず立ちどまり、花のみならず枝や幹の形をも眺めやったのである。東京の人が梅見という事を忘れなかったむかしの世のさまがつくづく思い返された故であ・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・彼の母はそれを見兼ねて枳の実を拾って来て其塞った鼻の孔へ押し込んでは僅かに呼吸の途をつけてやった。それは霜が木の葉を蹴落す冬のことであった。枳の木は竹藪の中に在った。黄ばんだ葉が蒼い冴えた空から力なさ相に竹の梢をたよってはらはらと散る。竹は・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・婆さんは人が聞こうが聞くまいが口上だけは必ず述べますという風で別段厭きた景色もなく怠る様子もなく何年何月何日をやっている。 余は東側の窓から首を出してちょっと近所を見渡した。眼の下に十坪ほどの庭がある。右も左もまた向うも石の高塀で仕切ら・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
多少のアブセンス・オブ・マインドというのは、誰にもあることである。あるのが普通といってよかろう。しかし私は可なり念入のアブセンス・オブ・マインドをやったことがある。今に思出しても、自分で可笑しくなるのである。 それは私・・・ 西田幾多郎 「アブセンス・オブ・マインド」
・・・ だが下らない前置を長ったらしくやったものだ。 私は未だ極道な青年だった。船員が極り切って着ている、続きの菜っ葉服が、矢っ張り私の唯一の衣類であった。 私は半月余り前、フランテンの欧洲航路を終えて帰った許りの所だった。船は、・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
出典:青空文庫