・・・大工のせがれがショパンにあこがれ、だんだん横に太るばかりで、脚気を病み、顔は蟹の甲羅の如く真四角、髪の毛は、海の風に靡かすどころか、頭のてっぺんが禿げて来ました。そうして一合の晩酌で大きい顔を、でらでら油光りさせて、老妻にいやらしくかまって・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、雨も止み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。メロスは額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。私には、いま、な・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・惣助はそのあくびの大きすぎるのを気に病み、祝辞を述べにやって来る親戚の者たちへ肩身のせまい思いをした。惣助の懸念はそろそろと的中しはじめた。太郎は母者人の乳房にもみずからすすんでしゃぶりつくようなことはなく、母者人のふところの中にいて口をた・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・ふっと呪文が、とぎれた、と同時に釜の中の沸騰の音も、ぴたりと止みましたので、王子は涙を流しながら少し頭を挙げて、不審そうに祭壇を見た時、嗚呼、「ラプンツェル、出ておいで。」という老婆の勝ち誇ったような澄んだ呼び声に応えて、やがて現われた、ラ・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・ポルジイは頭痛に病みながら、これを調べたのであった。 さてこの一切の物を受け取って、前に立っている銀行員を、ポルジイ中尉は批評眼で暫く見て、余り感心しない様子で云った。「君も少し姿勢がどうかならんかねえ。気を附けて見給え。損の行かな・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ 夜が明けても雨は小止みもなく降り続いた。松本までの車を雇って山を下りて来ると、島々の辺から雨が止み、汽車が甲州路に入ると雲が破れて日光が降りそそいだ。 雨の上高地はしかしやはり美しかった。 中の湯あたりから谷が迫って景色が・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・もっとも非常時の陸海軍では民間飛行の場合などとちがって軍機の制約から来るいろいろな止み難い事情のために事故の確率が多くなるのは当然かもしれないが、いずれにしても成ろうことならすべての事故の徹底的調査をして真相を明らかにし、そうして後難を無く・・・ 寺田寅彦 「災難雑考」
・・・そうして電車の音も止まり近所の大工の音も止み、世間がしんとして実に静寂な感じがしたのであった。 夕方藤田君が来て、図書館と法文科も全焼、山上集会所も本部も焼け、理学部では木造の数学教室が焼けたと云う。夕食後E君と白山へ行って蝋燭を買って・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・その間に我が親愛なる税関吏は止みなくチューインガムをニチャニチャ噛みながら品物を丹念に引出し引っくら返しては帳面に記入するのであった。アメリカ人にしても特別に長い方に属するかと思われるこの税関吏の顔は、チューインガムを歯と歯の間に引延ばすア・・・ 寺田寅彦 「チューインガム」
・・・一度草稿を作ってその通りのものを丹念に二度書き上げたものは、もはや半分以上魂の抜けたものになるのは実際止み難い事である。津田君はそういう魂のないものを我慢して画く事の出来ぬ性の人であるから、たとえ幾枚画き改めたところで遂に「仕上げ」の出来る・・・ 寺田寅彦 「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」
出典:青空文庫