・・・煙管羅宇竹のすげ替をする商人が、小さな車を曳き其上に据付けた釜の湯気でピイピイと汽笛を吹きならして来たのは、豆腐屋が振鐘をよして喇叭にしたよりも尚以前にあったらしい。天秤棒の両端に箱をつるし、ラウーイラウーイと呼んで歩いた旧い羅宇屋はいつか・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・ 途法にくれてあたりを見る時、吹雪の中にぼんやり蕎麦屋の灯が見えた嬉しさ。湯気の立つ饂飩の一杯に、娘は直様元気づき、再び雪の中を歩きつづけたが、わたくしはその時、ふだん飲まない燗酒を寒さしのぎに、一人で一合あまり飲んでしまったので、歩く・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・「僕はもう湯気に上がりそうだから、出るよ」「まあ、いいさ、出ないでも。君がいやなら僕が聞いて見るから、もう少し這入っていたまえ」「おや、あとから竹刀と小手がいっしょに来たぜ」「どれ。なるほど、揃って来た。あとから、まだ来るぜ・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ 八 桶には豆腐の煮える音がして盛んに湯気が発ッている。能代の膳には、徳利が袴をはいて、児戯みたいな香味の皿と、木皿に散蓮華が添えて置いてあッて、猪口の黄金水には、桜花の弁が二枚散ッた画と、端に吉里と仮名で書いたのが・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ガラスのマントも雫でいっぱい髪の毛もぬれて束になり赤い顔からは湯気さえ立てながらはあはあはあはあふいごのように笑っていました。 耕一はあたりがきぃんと鳴るように思ったくらい怒ってしまいました。「何為ぁ、ひとの傘ぶっかして。」 又・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・合せて盤をまわすと、そのとき出ているそらがそのまま楕円形のなかにめぐってあらわれるようになって居りやはりそのまん中には上から下へかけて銀河がぼうとけむったような帯になってその下の方ではかすかに爆発して湯気でもあげているように見えるのでした。・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・ポーポー湯気がたって、美味そうな匂いがする。スープです。 別の当番の子供たちが、それを順ぐりにアルミの鉢に入れてくばる。 そこへ、「子供たち!」と、さっきの白髪の女先生が入って来ました。「一寸しずかにして下さい。そして、・・・ 宮本百合子 「従妹への手紙」
・・・ ここは湯気が一ぱい籠もっていて、にわかにはいって見ると、しかと物を見定めることも出来ぬくらいである。その灰色の中に大きい竈が三つあって、どれにも残った薪が真赤に燃えている。しばらく立ち止まって見ているうちに、石の壁に沿うて造りつけてあ・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
・・・茶の間では銅壺が湯気を立てて鳴っていた。灸はまた縁側に立って暗い外を眺めていた。飛脚の提灯の火が街の方から帰って来た。びしょ濡れになった犬が首を垂れて、影のように献燈の下を通っていった。 宿の者らの晩餐は遅かった。灸は御飯を食ぺてしまう・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・清らかに澄んだ湯に脚をひたして湯槽の端に腰をかけている女の、肉付きのいい肌の白い後ろ姿が、ほの白い湯気の内にほんのりと浮き出ている。その融けても行きそうな体は、裸に釣り合うように古風に結ばれた髪の黒さで、急にハッキリとした形に結晶する。湯の・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫