・・・―― 事務室の窓かけは日の光の中にゆっくりと風に吹かれている。もっとも窓の外は何も見えない。事務室のまん中の大机には白い大掛児を着た支那人が二人、差し向かいに帳簿を検らべている。一人はまだ二十前後であろう。もう一人はやや黄ばみかけた、長・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・あとでゆっくりと謂い聞かすがよかろう」 伯爵は一議もなく、衆みなこれに同ずるを見て、かの医博士は遮りぬ。「一時後れては、取り返しがなりません。いったい、あなたがたは病を軽蔑しておらるるから埒あかん。感情をとやかくいうのは姑息です。看・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・丹精一心の兄夫婦も、今朝はいくらかゆっくりしたらしく、雨戸のあけかたが常のようには荒くない。省作も母が来て起こすまでは寝かせて置かれた。省作が目をさました時は、満蔵であろう、土間で米を搗く響きがずーんずーと調子よく響いていた。雨で家にいると・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・自分の技倆に信用を置いて相談に乗ったのだと云う風で、落ち着いてゆっくり発射した。弾丸は女房の立っている側の白樺の幹をかすって力がなくなって地に落ちて、どこか草の間に隠れた。 その次に女房が打ったが、やはり中らなかった。 それから二人・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・「おじいさん、ゆっくり飛びましょう。」 若いがんたちは、いくばくもなくして、この年とったがんを冒険の旅路の案内にさせたことは、無理であり、また、気の毒であったことを感じました。けれど、どうすることもできません。そして、こういたわると・・・ 小川未明 「がん」
・・・「なあにね、今日は不漁で店が閑だから、こんな時でなけりゃゆっくり用足しにも出られないって」「へ! 何の用足しだか知れたものじゃねえ、こう三公、いいことを手前に訓えてやらあ、今度お上さんが出かけるだったらな、どうもお楽しみでございます・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・そしてもう少し行くと、中座、浪花座と東より順に五座の、当時はゆっくりと仰ぎ見てたのしんだほど看板が見られたわけだったが、浜子は角座の隣りの果物屋の角をきゅうに千日前の方へ折れて、眼鏡屋の鏡の前で、浴衣の襟を直しました。浜子は蛇ノ目傘の模様の・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・兄さんの方は後でまたゆっくりと方法を考えて、国へ帰るにしても旅へ出るにしても、とにかくあまりむりをなさらない方がいいでしょう」と言って弟は私の憔れた顔にちょっと視入ったが、「それにしても、そういう気持が出るのも一つは病気のせいなんでしょ・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・ 姉が合点合点などしてゆっくり捜しかけるのを、じゅうじゅうと音をさせて煙草を呑んでいた兄は「扇子なんかどうでもええわな。早う仕度しやんし」と言って煙管の詰まったのを気にしていた。 奥の間で信子の仕度を手伝ってやっていた義母が・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・』『アハハハハハばかを言ってる、ドラ寝るとしよう、皆さんごゆっくり』と、幸衛門の叔父さん歳よりも早く禿げし頭をなでながら内に入りぬ。『わたしも帰って戦争の夢でも見るかな』と、罪のない若旦那の起ちかかるを止めるように『戦争はまだ永・・・ 国木田独歩 「置土産」
出典:青空文庫