・・・靄の中に仄めいた水には白い小犬の死骸が一匹、緩い波に絶えず揺すられていた。そのまた小犬は誰の仕業か、頸のまわりに花を持った一つづりの草をぶら下げていた。それは惨酷な気がすると同時に美しい気がするのにも違いなかった。のみならず僕は彼がうたった・・・ 芥川竜之介 「彼 第二」
・・・が、この平地が次第に緩い斜面をつくって、高粱と高粱との間を流れている、幅の狭い濁り川が、行方に明く開けた時、運命は二三本の川楊の木になって、もう落ちかかった葉を低い梢に集めながら、厳しく川のふちに立っていた。そうして、何小二の馬がその間を通・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・ 三人はトロッコを押しながら緩い傾斜を登って行った。良平は車に手をかけていても、心は外の事を考えていた。 その坂を向うへ下り切ると、又同じような茶店があった。土工たちがその中へはいった後、良平はトロッコに腰をかけながら、帰る事ばかり・・・ 芥川竜之介 「トロッコ」
・・・小褄を取った手に、黒繻子の襟が緩い。胸が少しはだかって、褄を引揚げたなりに乱れて、こぼれた浅葱が長く絡った、ぼっとりものの中肉が、帯もないのに、嬌娜である。「いや知っています。」 これで安心して、衝と寄りざまに、斜に向うへ離れる時、・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・釣も釣でおもしろいが、自分はその平野の中の緩い流れの附近の、平凡といえば平凡だが、何ら特異のことのない和易安閑たる景色を好もしく感じて、そうして自然に抱かれて幾時間を過すのを、東京のがやがやした綺羅びやかな境界に神経を消耗させながら享受する・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・ところがそのへん、麓の緩い傾斜のところには青い立派な闊葉樹が一杯生えているでしょう。あすこは古い沖積扇です。運ばれてきたのです。割合肥沃な土壌を作っています。木の生え工合がちがって見えましょう。わかりましょう。〕わかるだろうさ。けれどもみん・・・ 宮沢賢治 「台川」
・・・ 緩い傾斜を、二つ程昇り降りしました。それから、黒い大きな路について、暫らく歩きました。 稲光が二度ばかり、かすかに白くひらめきました。草を焼く匂がして、霧の中を煙がほっと流れています。 達二の兄さんが叫びました。「おじいさ・・・ 宮沢賢治 「種山ヶ原」
・・・ 広い緩い勾配の坂を上りながら小さい弟は不思議な顔をしながら、「今日は何故此那に人が居ないの。と云います。 後にも先にもたった二人自分達丈が歩いて居る事が頼り無い様に思われたのでしょう。 ほんとにいつもいつも此処・・・ 宮本百合子 「小さい子供」
・・・そして深い緩い息を衝いていた。 物音を聞き附けて、最初に駆け附けたのは、泊番の徒目附であった。次いで目附が来る。大目附が来る。本締が来る。医師を呼びに遣る。三右衛門の妻子のいる蠣殻町の中邸へ使が走って行く。 三右衛門は精神が慥で・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫