・・・実はあの手紙、大変忙しい時間に、社の同僚と手分けして約二十通ちかくを書かねばならなかったので、君の分だけ、個人的な通信を書いている時機がなかった。稿料のことを書かないのは却って不徳義故誰にでも書くことにしている。一緒に依頼した共通の友人、菊・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・それが、まだ見ぬ遠い彼方の別世界へこれから分けのぼる途中の嶮しさを想わせるのであった。 島々からのバスの道路が次第次第に梓川の水面から高く離れて行く。ある地点では車の窓から見下ろされる断崖の高さが六百尺だといって女車掌が紹介する。それが・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・ やがて善ニョムさんは、ソロソロ立ち上ると、肥笊に肥料を分けて、畑の隅から、麦の芽の一株ずつに、撒きはじめた。「ナァ、ホイキタホイ、ことしゃあ豊年、三つ蔵たてて、ホイキタホイ……」 一握り二株半――おかみの暦は変っても、肥料の加・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・という灯が見えるが、さて共処まで行って、今歩いて来た後方を顧ると、何処も彼処も一様の家造りと、一様の路地なので、自分の歩いた道は、どの路地であったのか、もう見分けがつかなくなる。おやおやと思って、後へ戻って見ると、同じような溝があって、同じ・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・そうして鏡の前で髪を分けた。時計を見ると、まだ七時である。しかし自分は十時何分かの汽車で立つはずになっていた。手をたたいて下女を呼んで、すぐ重吉を車で迎えにやるように命じた。そのあいだに飯を食うことにした。 なんだかおかしいという気分も・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・しかし翻って考えて見ると、子の死を悲む余も遠からず同じ運命に服従せねばならぬ、悲むものも悲まれるものも同じ青山の土塊と化して、ただ松風虫鳴のあるあり、いずれを先、いずれを後とも、分け難いのが人生の常である。永久なる時の上から考えて見れば、何・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・ 一本腕は何一つ分けてやろうともせずに、口の中の物をゆっくり丁寧に噬んでいる。 爺いさんは穹窿の下を、二三歩出口まで歩いて行って、じっと外を見ている。雪は絶間なく渦を巻いて地の上と水の上とに落ちる。その落ちるのが余り密なので、遠い所・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・其趣は西洋の文典書中に実名詞の種類を分けて男性女性中性の名あるが如く、往古不文時代の遺習にして固より深き意味あるに非ず。左れば男子は活溌にして身体強大なるが故に陽の部に入り、女子は静にして小弱なるが故に陰なりなど言う理窟もあらんかなれども、・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・広し家族多しといえども、一家の夫婦・親子・兄弟姉妹、相互いに親愛恭敬して至情を尽し、陰にも陽にも隠す所なくして互いにその幸福を祈り、無礼の間に敬意を表し、争うが如くにして相譲り、家の貧富に論なく万年の和気悠々として春の如くなるものは、不品行・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・読む、点をつける、それぞれの題の下に分けて書く、草稿へ棒を引いて向うへ投げやる。それから次の草稿へ移る。また読む、点をつける、水祝という題の処へ四、五句書き抜く、草稿へ棒を引いて向うへ投げやる。同じ事を繰り返して居る。夜は纔に更けそめてもう・・・ 正岡子規 「ランプの影」
出典:青空文庫