・・・お寺さんとわかれて、バスに乗ってしまった。なんだか、なんだか憂鬱だ。バスの中で、いやな女のひとを見た。襟のよごれた着物を着て、もじゃもじゃの赤い髪を櫛一本に巻きつけている。手も足もきたない。それに男か女か、わからないような、むっとした赤黒い・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・午後五時半と指定されていたのであるが、途中バスの聯絡が悪くて、私は六時すぎに到着した。はきもの係りの青年に、こっそり頼んで玄関傍の小部屋を借り、そこで身なりを調えた。その部屋では、上品な洋服の、青白い顔をした十歳くらいの男の子が、だらし無く・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・宿を出て、バスに乗り、振り向くと、娘さんが、少し笑って私を見送り急にぐしゃと泣いた。娘さんは、隣りの宿屋に、病身らしい小学校二、三年生くらいの弟と一緒に湯治しているのである。私の部屋の窓から、その隣りの宿の、娘さんの部屋が見えて、お互い朝夕・・・ 太宰治 「俗天使」
・・・熱海で、伊東行の汽車に乗りかえ、伊東から下田行のバスに乗り、伊豆半島の東海岸に沿うて三時間、バスにゆられて南下し、その戸数三十の見る影も無い山村に降り立った。ここなら、一泊三円を越えることは無かろうと思った。憂鬱堪えがたいばかりの粗末な、小・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・ 星野温泉行のバスが、千ヶ滝道から右に切れると、どこともなくぷんと強い松の匂いがする。小松のみどりが強烈な日光に照らされて樹脂中の揮発成分を放散するのであろう。この匂いを嗅ぐと、少年時代に遊び歩いた郷里の北山の夏の日の記憶が、一度に爆発・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・ 帰りに沓掛の駅でおりて星野行きの乗合バスの発車を待っている間に乗り組んだ商人が運転手を相手に先刻トラックで老婆がひかれたのを目撃したと言って足の肉と骨とがきれいに離れていたといったようなことをおもしろそうに話していた。バスが発車してま・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・ 島々からのバスの道路が次第次第に梓川の水面から高く離れて行く。ある地点では車の窓から見下ろされる断崖の高さが六百尺だといって女車掌が紹介する。それが六百尺であることがあたかもその車掌のせいででもあるかのように、何となく得意気に聞こえて・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・それだのにそうかと云って、洋画家で絵絹へ油絵具を塗る試みをあえてする人、日本画家でカンバスへ日本絵具を盛り上げる実験をする人がないのはむしろ不思議なくらいである。 洋画を通じてルソーやマチスや、ドランやマルケーなどのようなフランス絵の影・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・その時の記憶と今度行って見た軽井沢とで、目についた相違はと言えば、機関車の動力が電気になっていること、停車場前に客待ちのリクショウメンがいなくなって、そのかわりに自動車とバスと、それからいろいろな名前のホテルの制帽を着た、丁寧でいばっている・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・TS君のその話を聞いて間もないある夜のこと、工業倶楽部の近くの辻でバスを待っているとどこからともなく子供を負ぶった中年男が闇の中からひょっくり現われて、浅草までの道を聞くのであった。前に逢った場合と同じように無帽で、同じような五、六歳くらい・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫