・・・ すると今度は櫛かピンかが、突然ばたりと落ちる音が聞えた。しかしそれを拾い上げる音は、いくら耳を澄ましていても、なぜか陳には聞えなかった。 こう云う物音は一つ一つ、文字通り陳の心臓を打った。陳はその度に身を震わせながら、それでも耳だ・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・「何だろう、あのネクタイ・ピンは?」 僕は小声にこう言った後、忽ちピンだと思ったのは巻煙草の火だったのを発見した。すると妻は袂を銜え、誰よりも先に忍び笑いをし出した。が、その男はわき目もふらずにさっさと僕等とすれ違って行った。「・・・ 芥川竜之介 「蜃気楼」
・・・最後にその茶箪笥の上の壁には、いずれも雑誌の口絵らしいのが、ピンで三四枚とめてある。一番まん中なのは、鏑木清方君の元禄女で、その下に小さくなっているのは、ラファエルのマドンナか何からしい。と思うとその元禄女の上には、北村四海君の彫刻の女が御・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・ というままに、頸の手拭が真額でピンと反ると、棒をハタと投げ、ずかと諸手を墓にかけた。袖の撓うを胸へ取った、前抱きにぬっと立ち、腰を張って土手を下りた。この方が掛り勝手がいいらしい。巌路へ踏みはだかるように足を拡げ、タタと総身に動揺を加・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・また誰かの論文中“Chopin”をチョピンと書いてあったので、「チヨピンとはおれが事かとシヨパン云ひ」という川柳が出来たが、この作者は緑雨であったか万年博士であったか忘れてしまった。『門三味線』を作ったのもこの壱岐殿坂時代であって、この文句・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・「僕つかまえて、ピンでとめておこうかな。」「正ちゃんおよしなさいね。かわいそうだから、にがしておやり。」「僕、お兄さんのように、ひょうほんをつくるのだ。」といって、弟の正ちゃんは、窓の下にいすを引きずってきました。「ねえ、正・・・ 小川未明 「花とあかり」
・・・合駒を持たぬ相手にピンピンと王手王手を掛けるようなこともした。いたわる積りがかえってその人の弱みをさらけ出した結果ともなってしまったのだ。その人は字は読めぬ人だ、よしんば読めても文芸雑誌など手にすることもあるまいなどというのは慰めにも弁解に・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・芸者上りの彼女は純白のドレスの胸にピンクの薔薇をつけて、頭には真紅のターバン、真黒のレースの手袋をはめている許りか、四角い玉の色眼鏡を掛けているではないか。私はどんな醜い女とでも喜んで歩くのだが、どんな美しい女でもその女が人眼に立つ奇抜な身・・・ 織田作之助 「世相」
・・・そんな武田さんが私は何ともいえず好きだった。ピンからキリまでの都会人であった。 去年の三月、宇野さんが大阪へ来られた時、ある雑誌で「大阪と文学を語る座談会」をやった。その時、武田さんの「銀座八丁」の話が出た。宇野さんは武田さんのものでは・・・ 織田作之助 「武田麟太郎追悼」
・・・半僧坊のおみくじでは、前途成好事――云々とあったが、あの際大吉は凶にかえるとあの茶店の別ピンさんが口にしたと思いますが、鎌倉から東京へ帰り、間もなく帰郷して例の関係事業に努力を傾注したのでしたが、慣れぬ商法の失敗がちで、つい情にひかされやす・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
出典:青空文庫