・・・ 一度、六十位の身体一杯にヒゼンをかいたバタヤのお爺さんが這入ってきたことがあった。エンコに出ていて、飲食店の裏口を廻って歩いて、ズケにありついている可哀相なお爺さんだった。五年刑務所にいて、やっとこの正月出てきたんだから、今年の正月だ・・・ 小林多喜二 「独房」
秀吉金冠を戴きたりといえども五右衛門四天を着けたりといえども猿か友市生れた時は同じ乳呑児なり太閤たると大盗たると聾が聞かば音は異るまじきも変るは塵の世の虫けらどもが栄枯窮達一度が末代とは阿房陀羅経もまたこれを説けりお噺は山・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・「お父さんが亡くなってから、お母さんは一度も鏡を見ない。今日は蜂谷さんにもよく診察して貰うで、久しぶりでお母さんも鏡を見るわい」 おげんは親しげに自分のことを娘に言って見せて、お新がそこへ持って来た鏡に向おうとした。ふと、死別れてか・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ 王さまは今ではよほど年を取ってお出でになるのですが、まだこれまで一度も王妃がおありになりませんでした。それには深いわけがありました。王さまは、お若いときに、よその国を攻めほろぼして王をお殺しになりました。その王には一人の王女がありまし・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・っくりだという事が明白になってまいりましたので、知らぬ振りをしているわけにもゆかず、ここに日本の山椒魚が世界中の学者の重要な研究課目と相なりまして、いやしくも古代の動物に関心を持つほどの者は、ぜひとも一度ニッポンの大サンショウウオにお目にか・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・ポルジイが一度好いと云った女の周囲には、耳食の徒が集まって来て、その女は大幣の引手あまたになる。それに学問というものを一切していないのが、最も及ぶべからざる処である。うぶで、無邪気で、何事に逢っても挫折しない元気を持っている。物に拘泥しない・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・「弥勒に一度つれて行ってくれたまえ」 で、秋のある静かな日が選ばれた。私達は三里の道、小林君が毎日通って行ったその同じ道を静かにたどった。野には明るい日が照り、秋草が咲き、里川が静かに流れ、角のうどん屋では、かみさんがせっせとうどん・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・ 一度乾いていた涙が、また止め度もなく流れる。しかし、それはもう悲しみの涙ではなくて、永久に魂に喰い入る、淋しい淋しいあきらめの涙である。 夜が迫って来る。マリアナの姿はもう見えない。私は、ただ一人淋しく、森のはずれの切株に腰をかけ・・・ 寺田寅彦 「秋の歌」
・・・で、私がこのごろ二十五六年ぶりで大阪で逢った同窓で、ある大きなロシヤ貿易の商会主であるY氏に、一度桂三郎を紹介してくれろというのが、兄の希望であった。私は大阪でY氏と他の五六の学校時代の友人とに招かれて、親しく談話を交えたばかりであった。彼・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・こんにゃくはこんにゃく芋を擦りつぶして、一度煮てからいろんな形に切り、それを水に一ト晩さらしといてあくをぬく。諸君がとんぼとりにつかうもちは、その芋をつぶすときに出来るおねばのことであるが、さてそのこんにゃく屋さんは、はたらき者の爺さんと婆・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
出典:青空文庫