・・・自分が近寄ったのも気が付かぬか、一心に拾っては砂浜の高みへ投げ上げている。脚元近く迫る潮先も知らぬ顔で、時々頭からかぶる波のしぶきを拭おうともせぬ。 何処の浦辺からともなく波に漂うて打上がった木片板片の過去の歴史は波の彼方に葬られて、こ・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・自分に気の乗った作ができなくてただ人に迎えられたい一心でやる仕事には自己という精神が籠るはずがない。すべてが借り物になって魂の宿る余地がなくなるばかりです。私は芸術家というほどのものでもないが、まあ文学上の述作をやっているから、やはりこの種・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・ じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った。 しばらくして、女がまたこう云っ・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・知るや知らずや、其不平は人を謗るにも非ず、物妬むにも非ず、唯是れ婦人自身の権利を護らんとするの一心のみ。其心中の真面目をも忖度せずして、容易に之に附するに敗徳の名を以てす、無理無法に非ずして何ぞや。百千年来蛮勇狼藉の遺風に籠絡せられて、僅に・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ 前章にいえる如く、当世の学者は一心一向にその思想を政府の政に凝らし、すでに過剰にして持てあましたる官員の中に割込み、なおも奇計妙策を政の実地に施さんとする者は、その数ほとんどはかるべからず。ただに今日、熱中奔走する者のみならず、内外に・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・ ブドリはその日からベンネン老技師について、すべての器械の扱い方や観測のしかたを習い、夜も昼も一心に働いたり勉強したりしました。そして二年ばかりたちますと、ブドリはほかの人たちといっしょにあちこちの火山へ器械を据え付けに出されたり、据え・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・ ゴーシュも口をりんと結んで眼を皿のようにして楽譜を見つめながらもう一心に弾いています。 にわかにぱたっと楽長が両手を鳴らしました。みんなぴたりと曲をやめてしんとしました。楽長がどなりました。「セロがおくれた。トォテテ テテテイ・・・ 宮沢賢治 「セロ弾きのゴーシュ」
・・・私はきっと梢の見えるところまで出かけ、空を眺め、風に吹かれ、痛快なおどろきとこわさを一心に吸い込もうとする。今日も、椽側の硝子をすかし、眼を細くして外界の荒れを見物しているうちに、ふと、子供の時のことを思い出した。 ・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
・・・ 娘たちはきっと、そういう体のあがきのわるい姿で隊をなしてペタルをふんでさぞや一心な顔つきであったろう。その一心な若い真率な心を、その姿の与える空気で裏切っていたということは、娘さんたちにとって本当に可哀相と思う。疲れて浦和へかえったと・・・ 宮本百合子 「女の行進」
・・・その主張を一語でいうと、神儒仏の三者は同一の真理を示している、一心すなわち神すなわち道、三にして一、一にして三である、ということになるであろう。 この兼良が晩年に将軍義尚のために書いた『文明一統記』や『樵談治要』などは、相当に広く流布し・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫