・・・その一条をとりてわれかつて笛吹きし時たけたかく伸びし野の草はおろかや牧場は端より端にいたるまであるいはしなやかなる柳の木ささやかなる音して流るる小川さへ皆一時に応へてふるへをののぎぬ。蘆の細茎の一すぢは過ぎし日かつて・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・昔のままの原と川と山の間にある、一条、二条、三条をつくして、九条に至っても十条に至っても、皆昔のままである。数えて百条に至り、生きて千年に至るとも京は依然として淋しかろう。この淋しい京を、春寒の宵に、とく走る汽車から会釈なく振り落された余は・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・ 今日は殊更しおれて何処か毛の濡れた仔猫のように見える彼女は、良人かられんに暇をやった一条を聞くと、情けない声で「困るわ、私」と云い出した。「どうして一言相談して下さらなかったの?」 彼は尤もな攻撃に当惑し、頻りに掌で髪・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・右にも左にも丘陵の迫った真中が一面焼石、焼砂だ。一条細い道が跫跡にかためられて、その間を、彼方の山麓まで絶え絶えについている。ざらざらした白っぽい巌の破片に混って硫黄が道傍で凝固していた。烈しい力で地層を掻きむしられたように、平らな部分、土・・・ 宮本百合子 「白い蚊帳」
・・・ダーリヤの妻から母になろうとする若い胸には、こう考えて来ると、いつも、永久に消え去る一条の煙の果を眺めるような当途もない心持が湧くのであった。彼女には、レオニード・グレゴリウィッチがこれ以上立身をして、自分達の生活に変りが起ろうとも思えなか・・・ 宮本百合子 「街」
・・・ 東京に沢山ある町のその一条毎にその特有のにおいが有る。それも気をつけてかぐ様にしてあるくのが私はすきでわり合に沢山の町の香いを知って居る。 小石川の宮下町の近所は古い錦の布の虫ばんだ様な香がする。 銀座の竹葉のわきの通・・・ 宮本百合子 「芽生」
・・・ その空家の叢の蔭に、いつからとなく一条草が踏みつけられた。そこから白黒斑の雄犬が一匹私共の家へ来る。自由な、親密な感情を持ったこの動物は、主人が、人夫を入れて物干杙を引き抜かせて去っても、私共が彼を呼んだ声を覚えていると見えて、来るの・・・ 宮本百合子 「蓮花図」
・・・そこでかれは糸の一条を語りはじめた。たれも信ずるものがない、みんな笑った。かれは道すがらあうごとに呼びとめられ、かれもまた知る人にあえば呼びとめてこの一条を繰り返し繰り返し語りて自分を弁解し、そのたびごとにポケットの裏を返して見せて何にもも・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・一族のものは市太夫の復命を聞いて、一条の活路を得たような気がした。そのうち日が立って、天祐和尚の帰京のときが次第に近づいて来た。和尚は殿様に逢って話をするたびに、阿部権兵衛が助命のことを折りがあったら言上しようと思ったが、どうしても折りがな・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・今より後の世には、その比は延喜一条院の御代などの如くしのび侍るべく哉」。すなわち応永、永享は室町時代の絶頂であり、延喜の御代に比せらるべきものなのである。しかるに我々は、少年時代以来、延喜の御代の讃美を聞いたことはしばしばであったが、応永永・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫