・・・いくら捜しても、迚も見つかりっこはありゃしねえと云んで、皆なまあ一時引揚げることにして錨を流して見ることになったんだ。 処が人数を調べてみると、上等兵の大瀬だけが一人揚って来ねえ。そいつは大変だと云うんで、また忰を捜すと云う騒ぎだ。だが・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・と覚えず勝利の声を上げる。田崎と車夫喜助が鋤鍬で、雪をかき除けて見ると、去年中あれほど捜索しても分らなかった狐の穴は、冬も茂る熊笹の蔭にありあり見えすいて居る。いよいよ狐退治の評議が開かれる。 喜助は、唐辛でえぶせば、奴さん、我慢が出来・・・ 永井荷風 「狐」
・・・ 文学者でチェルシーに縁故のあるものを挙げると昔しはトマス・モア、下ってスモレット、なお下ってカーライルと同時代にはリ・ハントなどがもっとも著名である。ハントの家はカーライルの直近傍で、現にカーライルがこの家に引き移った晩尋ねて来たとい・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
文化の発展には民族というものが基礎とならねばならぬ。民族的統一を形成するものは風俗慣習等種々なる生活様式を挙げることができるであろうが、言語というものがその最大な要素でなければならない。故に優秀な民族は優秀な言語を有つ。ギリシャ語は哲・・・ 西田幾多郎 「国語の自在性」
・・・僅に、滅茶苦茶に涙を流しながら、引き起そうとする子供の力だけ、その冷たい首を上げるだけであった。 それでも、子供たちは、その小さな心臓がハチ切れるように、喘いでいるのにその屍体を起すことにかかっていた。若し、飯場の人たちが、親も子も帰ら・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・「ああ、今度来なすッたら、知らせて上げるから、遊びにおいでよ」 吉里はしばらく考えていた。そして、手酌で二三杯飲んで、またしばらく考えていた。「小万さん、平田さんの音信は、西宮さんへもないんだろうかね」と、吉里の声は存外平気らし・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・これまで申上げると、わたくしはこの手紙を上げる理由を御話申さなくてはなりませんから、その前に今の夫の事を申しましょう。格別面白いお話ではございませんから、なるたけ簡略に致します。ジネストは情なしの利己主義者でございます。けちな圧制家でござい・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・ 大砲をうつとき、片脚をぷんとうしろへ挙げる艦は、この前のニダナトラの戦役での負傷兵で、音がまだ脚の神経にひびくのです。 さて、空を大きく四へん廻ったとき、大監督が、「分れっ、解散」と云いながら、列をはなれて杉の木の大監督官舎に・・・ 宮沢賢治 「烏の北斗七星」
・・・私もかねて皆に仕事をするということは自分をつくり上げることだといって教えていますが、子供たちも仕事をする気分を味って、朗らかに働いています」そして、巣鴨の学校から志村のその工場へ通うバス代と別に「相当した賃銀」を出していると語っている。・・・ 宮本百合子 「新しい婦人の職場と任務」
・・・この土地には旅の人を留めて上げる所は一軒もありません」 女中が言った。「それは本当ですか。どうしてそんなに人気が悪いのでしょう」 二人の子供は、はずんで来る対話の調子を気にして、潮汲み女のそばへ寄ったので、女中と三人で女を取り巻いた・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫