・・・これを聞いて若主人は顔を上げて、やや不安の色で。「よろしい、今ゆく。」「急用なら中止しましょう」と紳士は一寸手を休める。「何に関いません、急用という程の事じゃアないんです。」と若主人は直ぐ盤を見つめて、石を下しつつ、「今の妹・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・確かにわれわれが倫理的な問いを持つにいたった痛切な原因にはこの時と処と人とによってモラールが異なるところに発する不安と当惑とがあるのである。 これに対してリップスはいう。一つの比論をとれば、物理的真理において、真理そのものを万物の真相は・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・すべての者が憂欝と不安に襲われていた。中隊長の顔には、焦慮の色が表われている。 草原も、道も、河も悉く雪に蔽われていた。 枝に雪をいただいて、それが丁度、枝に雪がなっているように見える枯木が、五六本ずつ所々に散見する外、あたりには何・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・と、いうように何も明白に順序立てて自然に感じられるわけでは無いが、何かしら物苦しい淋しい不安なものが自分に逼って来るのを妻は感じた。それは、いつもの通りに、古代の人のような帽子――というよりは冠を脱ぎ、天神様のような服を着換えさせる間にも、・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・またかと思うような号外売りがこの町の界隈へも鈴を振り立てながら走ってやって来て、大げさな声で、そこいらに不安をまきちらして行くだけでも、私たちの神経がとがらずにはいられなかった。私は、年もまだ若く心も柔らかい子供らの目から、殺人、強盗、放火・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・この両端にさまよって、不定不安の生を営みながら、自分でも不満足だらけで過ごして行く。 この点から考えると、世の一人生観に帰命して何らの疑惑をも感ぜずに行き得る人は幸福である。ましてそれを他人に宣伝するまでになった人はいよいよ幸福である。・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・しかし後には、自分の子が髪剃を持ってあたるのさえも不安心でならなくなりました。それでとうとう鬚を剃るのをやめて、その代りに、栗の殻を真赤に焼かせて、それで以て、娘たちに鬚を焼かせ焼かせしました。 或日彼は、アンティフォンという男に向って・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・けれども、くらしの不安はない。要するに、いい家庭だ。ときどき皆、一様におそろしく退屈することがあるので、これには閉口である。きょうは、曇天、日曜である。セルの季節で、この陰鬱の梅雨が過ぎると、夏がやって来るのである。みんな客間に集って、母は・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ 過去の面影と現在の苦痛不安とが、はっきりと区画を立てておりながら、しかもそれがすれすれにすりよった。銃が重い、背嚢が重い、脚が重い。腰から下は他人のようで、自分で歩いているのかいないのか、それすらはっきりとはわからぬ。 褐色の道路・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・この人気に対して一種の不安の色が彼の眉目の間に読まれる。のみならず「はやりものだな」という言葉が彼の口から洩れた。しかしこれは悪く取ってはいけない、無理のないところもあると著者が弁護している。 それから古典教育に関する著者の長い議論があ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
出典:青空文庫