・・・荒川改修工事がこの爺さんには何となく不平らしい。 この日は少し曇っていて、それでいて道路の土が乾き切っているので街道は塵が多く、川越街道の眺めが一体に濁っていた。 巣鴨から上野へと本郷通りを通るときに、また新しい経験をした。毎週一、・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・ 今朝も珍らしく早く起きたおひろは茶の室でお芳にさんざん不平を訴えていた。よく響くその声が、道太のうとうとしている耳にも聞こえた。お絹も寝床にいて、寝たふりで聞いていた。 道太は裏の家に大散財があったので、昨夜は夜中に寝床を下へもっ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・綺麗な金ピカなお堂がいくつもあって、その階の前で自分は浅草の観音さまのように鳩の群に餌を撒いてやったが何故このお堂の近所には仲見世のような、賑やかでお土産を沢山買うような処がないのかと、むしろ不平であった事なぞがおぼろに思い返される。 ・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・またこんな挨拶ができればこそ、たいした興味もない日本に二十年もながくいて、不平らしい顔を見せる必要もなかったのだろう。 場所ばかりではない、時間のうえでも先生の態度はまったく普通の人と違っている。郵船会社の汽船は半分荷物船だから船足がお・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生の告別」
・・・二母孰れか妻にして孰れか妾なるや其区別もなく、又その間に嫉妬心も見えず権利論も起らざるが如くなれども、万物の霊たる人間は則ち然らず、人倫の大本として夫婦婚姻を契約したる其婦人が、配偶者の狂乱破約を見て不平なからんと欲するも得べからず。其不平・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・詠歌のごときはもとよりその専攻せしところに非ざるべきも、胸中の不平は他に漏らすの方なく、凝りて三十一字となりて現れしものなるべく、その歌が塵気を脱して世に媚びざるはこれがためなり。彼自ら詠じて曰く吾歌をよろこび涙こぼすらむ鬼のなく声・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・「そこでそのケイザイやゴラクが悪くなるというと、不平を生じてブンレツを起こすというケッカにホウチャクするね。そうなるのは実にそのわれわれのシンガイでフホンイであるから、やはりその、ものごとは共同一致団結和睦のセイシンでやらんといかんね。・・・ 宮沢賢治 「クねずみ」
・・・ 口々の不平を泰然と岡本はちょいと意地悪そうに眉根をぴりりとさせながら、「生憎海老が切れましたから蝦姑にいたしました」と答えた。――忠一や篤介と岡本は仲が悪く、彼等は彼女がその部屋におるのに庭を見ながら、「おい、うらなりだね・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・しかし不平は感じない。そんならと云って、これが自分の運だと諦めているという fataliste らしい思想を持っているのでもない。どうかすると、こんな事は罷めたらどうだろうなどとも思う。それから罷めた先きを考えて見る。今の身の上で、ランプの・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ 浄火の中を巡って歩いて、何か押丁に対する不平があるなら言えという役人がある。ある時その役人に、ツァウォツキイが言った。「ちょっと伺いますが、娑婆で忘れて来た事をしに行くのに、一日だけお暇が貰えると云うことでしたね。あの権利がただ今でも・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
出典:青空文庫