・・・強烈な電燈の光に照出される昭和の世相は老眼鏡のくもりをふいている間にどんどん変って行く。この頃、銀座通に柳の苗木が植付けられた。この苗木のもとに立って、断髪洋装の女子と共に蓄音機の奏する出征の曲を聴いて感激を催す事は、鬢糸禅榻の歎をなすもの・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・ その後一年ほどたってから再び元八まんの祠を尋ねると、古い社殿はいつの間にか新しいものに建替えられ、夕闇にすかし見た境内の廃趣は過半なくなっていた。世相の急変は啻に繁華な町のみではなく、この辺鄙にあってもまた免れないのである。わたくしは・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・ずるの例を示し、これより儒者の道も次第に盛にして、碩学大儒続々輩出したりといえども、全国の士人がまったく仏臭を脱して儒教の独立を得るまでは、およそ百年を費し、元禄のころより享保以下にいたりて、はじめて世相を変じたるものの如し。(徳川をはじめ・・・ 福沢諭吉 「政事と教育と分離すべし」
・・・この身分感は、こんにち肉体文学はじめ世相のいたるところにある斜陽族趣味にまで投影して来ているのである。 日本の大学、なかでも帝大といわれた帝国大学は、明治以来のそういう日本的な伝統のなかで、どこよりもふるい力に影響されていたところではな・・・ 宮本百合子 「新しいアカデミアを」
・・・ 多くの人は、つのめだった世相につかれて生活のうちにせめて寸刻のやわらぎを求めています。あつい夏の朝、新聞をあければ、今日も明日もと、下山事件、三鷹事件、『アカハタ』への手入れとあつ苦しい、ごみっぽい記事はすべて共産党に結びつけて大げさ・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・特に男の側からその態度がつよくなって来ていると見えるのは今日の世相のどういう反映というべきだろう。つまり友達としては向上心もあり、感受性も活溌で、幾らかはスポーティな、いってみれば手ごたえの鮮やかな女性を好む若い男たちが、いざ結婚のあいてを・・・ 宮本百合子 「異性の友情」
・・・ 明治、大正と徐々に成熟して来た日本の文学的諸要素が、世相の急激な推移につれて振盪され、矛盾を露出し、その間おのずから新たな文芸思潮の摸索もあって、今日はまことに劇しい時代である。日本に於てはロマンチシズムが今日どういう役割を果している・・・ 宮本百合子 「意味深き今日の日本文学の相貌を」
・・・ この四五年の急に動く世相は、大多数の人々の日常生活を脅かして、経済的な不安とともに文化的な面で貧しくさせて来ている。そのことは純文学の単行本の売れゆきのわるさ、その対策の推移を見てもはっきりしていると思う。小説の単行本が売れないと・・・ 宮本百合子 「「大人の文学」論の現実性」
・・・私小説、身辺小説からよりひろい客観的な社会性のある小説への要求が起った時代、ひきつづく事変によって変化した世相が文学のその課題の解決を歪めてずるりずるりと生産文学へひきずりこんだ。それと同様に、一応野望的な作家の心に湧いたより活溌な、より広・・・ 宮本百合子 「おのずから低きに」
・・・一つの人格、一つの世相、一つの戦い、その秘められた核を私は一本の針で突き刺して見せる。その証拠は私の製作が示すだろう。 そして私は製作する。できたものをたとえばストリンドベルヒの作に比べてみる。何という鈍さと貧弱さだろう。私は差恥と絶望・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫