・・・松の並木を数えても、菓子をほうびにその数を教えても、結果は同じことです。一、二、三という言葉と、その言葉が示す数の観念とは、この子供の頭になんの関係をも持っていないのです。 白痴に数の観念の欠けていることは聞いてはいましたが、これほどま・・・ 国木田独歩 「春の鳥」
・・・ついにやぶれて脚折るるになんなんたり。並木の松もここには始皇をなぐさめえずして、ひとりだちの椎はいたずらに藤房のかなしみに似たり。隧道に一やすみす。この時またみちのりを問うに、さきの答は五十町一里なりけり。とかくして涙ながら三戸につきぬ。床・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・明るい黄緑の花を垂れた柳並木を通して、電車通の向側へ渡って行く二人の女連の姿が見えた……その一人が彼女らしかった…… 彼女はまだ若く見えた。その筈だ、大塚さんと結婚した時が二十で、別れた時が二十五だったから。彼女がある医者の細君に成って・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・「ああ、並木だ」と相川は腰弁の生涯を胸に浮べた。「もっと頭を挙げて歩け」 こう彼は口の中で言って見て、塵埃だらけに成った人々の群を眺め入った。 島崎藤村 「並木」
・・・ 河に沿うて付いている道には、規則正しい間隔を置いて植えた、二列の白楊の並木がある。白楊は、垂れかかっている白雲の方へ、長く黒く伸びている。その道を河に沿うて、河の方へ向いて七人の男がゆっくり歩いている。男等の位置と白楊の位置とが変るの・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・私は、この裁判所と自宅との間を往復して、ただ並木路を往復して歩いて、ふと気がついたら二十年経っていました。いちどは冒険を。いいえ、あなたのことじゃ無いんです。いろいろの事がありましたものね。おや、聞えますね。囚人たちの唱歌ですよ。シオンのむ・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・赤い甍から椎の並木がうねうねと南へ伸びている。並木のつきたところに白壁が鈍く光っている。質屋の土蔵である。三十歳を越したばかりの小柄で怜悧な女主人が経営しているのだ。このひとは僕と路で行き逢っても、僕の顔を見ぬふりをする。挨拶を受けた相手の・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・この田畝道にあらわれ出したのは、今からふた月ほど前、近郊の地が開けて、新しい家作がかなたの森の角、こなたの丘の上にでき上がって、某少将の邸宅、某会社重役の邸宅などの大きな構えが、武蔵野のなごりの櫟の大並木の間からちらちらと画のように見えるこ・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・街道に沿うた松並木の影の中をこの椎茸がニョキ/\と飛んで行くのがドンナに可笑しかったろう。朝はこの椎茸が恐ろしく長くて、露にしめった道傍の草の上を大蛇のようにうねって行く。どうかするとこの影が小川へ飛込んで見えなくなったと思うと、不意に向う・・・ 寺田寅彦 「車」
・・・昼なれば白面の魎魅も影をかくして軒を並ぶる小亭閑として人の気あるは稀なり。並木の影涼しきところ木の根に腰かけて憩えば晴嵐梢を鳴らして衣に入る。枯枝を拾いて砂に嗚呼忠臣など落書すれば行き来の人吾等を見る。半時間ほども両人無言にて美人も通りそう・・・ 寺田寅彦 「東上記」
出典:青空文庫