・・・洋一はその足袋を見ると、丸髷に結った姉の身のまわりに、まだ往来の雨のしぶきが、感ぜられるような心もちがした。「やっぱりお肚が痛むんでねえ。――熱もまだ九度からあるんだとさ。」 叔母は易者の手紙をひろげたなり、神山と入れ違いに来た女中・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ この頃丸髷に結ったお蓮は、ほとんど宵毎に長火鉢を隔てながら、牧野の酒の相手をした。二人の間の茶ぶ台には、大抵からすみや海鼠腸が、小綺麗な皿小鉢を並べていた。 そう云う時には過去の生活が、とかくお蓮の頭の中に、はっきり浮んで来勝ちだ・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・「一人は丸髷じゃあないか」「どのみちはや御相談になるんじゃなし、丸髷でも、束髪でも、ないししゃぐまでもなんでもいい」「ところでと、あのふうじゃあ、ぜひ、高島田とくるところを、銀杏と出たなあどういう気だろう」「銀杏、合点がいか・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・ちょうど緋縮緬のと並んでいた、そのつれかとも思われる、大島の羽織を着た、丸髷の、脊の高い、面長な、目鼻立のきっぱりした顔を見ると、宗吉は、あっと思った。 再び、おや、と思った。 と言うのは、このごろ忙しさに、不沙汰はしているが、知己・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 油気も無く擦切るばかりの夜嵐にばさついたが、艶のある薄手な丸髷がッくりと、焦茶色の絹のふらしてんの襟巻。房の切れた、男物らしいのを細く巻いたが、左の袖口を、ト乳の上へしょんぼりと捲き込んだ袂の下に、利休形の煙草入の、裏の緋塩瀬ばかりが・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・大きな丸髷すがたになっている。「………」僕は敷居をまたいでから、無言で立っていると、「まア、おあがんなさいな」と言う。 見れば、もとは店さきでもあったらしい薄ぐらい八畳の間の右の片隅に僕の革鞄が置いてある。これに反対した方の壁ぎ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 二十五年前には日本の島田や丸髷の目方が何十匁とか何百匁とかあって衛生上害があるという理由で束髪が行われ初め、前髪も鬢も髦も最後までが二十七年、頼政の旗上げから数えるとたった六七年である。南朝五十七年も其前後の準備や終結を除いた正味は二・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・彼女たち――すなわち、此の界隈で働く女たち、丸髷の仲居、パアマネント・ウエーヴをした職業婦人、もっさりした洋髪の娼妓、こっぽりをはいた半玉、そして銀杏返しや島田の芸者たち……高下駄をはいてコートを着て、何ごとかぶつぶつ願を掛けている――雨の・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・髪はこの手合にお定まりのようなお手製の櫛巻なれど、身だしなみを捨てぬに、小官吏の細君などが四銭の丸髷を二十日も保たせたるよりは遥に見よげなるも、どこかに一時は磨き立たる光の残れるが助をなせるなるべし。亭主の帰り来りしを見て急に立上り、「・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・立派な丸髷に結った何処かの細君らしい婦人で、新入の患者仲間を迎え顔におげんの方へ来て、何か思いついたように恐ろしく丁寧なお辞儀をして行くのもあった。 寒い静かな光線はおげんの行く廊下のところへ射して来ていて、何となく気分を落着かせた。そ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
出典:青空文庫