・・・わたくしは両親よりも一歩先に横浜から船に乗り、そして神戸の港で、後から陸行して来られる両親を待合したのである。 船は荷積をするため二日二晩碇泊しているので、そのあいだに、わたくしは一人で京都大阪の名所を見歩き、生れて初めての旅行を娯しん・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・――乗り捨てし馬も恩に嘶かん。一夜の宿の情け深きに酬いまつるものなきを恥ず」と答えたるは、具足を脱いで、黄なる袍に姿を改めたる騎士なり。シャロットを馳せる時何事とは知らず、岩の凹みの秋の水を浴びたる心地して、かりの宿りを求め得たる今に至るま・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 私が予め読者諸氏に、ことわって置く必要があると云うのは、これから、第三金時丸の、乗組員たちが、たといどんな風になって行くにしても、「第一、そんな船に乗りさえしなければよかったんじゃないか、お天陽様と、米の飯はどこにでもついて、まわるじ・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・ たとえば海陸軍においても、軍艦に乗りて海上に戦い、馬に跨て兵隊を指揮するは、真に軍人の事にして、身みずから軍法に明らかにして実地の経験ある者に非ざれば、この任に堪えず。されども海陸軍、必ずしも軍人のみをもって支配すべからず。軍律の裁判・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・それから切符を買って、イーハトーヴ行きの汽車に乗りました。汽車はいくつもの沼ばたけをどんどんどんどんうしろへ送りながら、もう一散に走りました。その向こうには、たくさんの黒い森が、次から次と形を変えて、やっぱりうしろのほうへ残されて行くのでし・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・ずっとモスクワから乗りつづけて来たものは長い旅行が明日は終ろうとする前夜の軽い亢奮で。新しく今日乗り込んで来た連中は、列車ではじめての夕飯をたべながら。――(汽車の食堂は普通の食堂シベリアに雪はあるかと訊いた男が通路のむこう側のテーブルでや・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・夜がふけてから侍分のものが一人覆面して、塀をうちから乗り越えて出たが、廻役の佐分利嘉左衛門が組の足軽丸山三之丞が討ち取った。そののち夜明けまで何事もなかった。 かねて近隣のものには沙汰があった。たとい当番たりとも在宿して火の用心を怠らぬ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・それから御一しょに乗りました。貴夫人。そうでした。そしてわたくしの内まで二十五分間その馬車のうちに御一しょにいましたのでございます。あなた一頭曳と二頭曳とはどれだけ違うか御承知。男。いや。分かりませんなあ。貴夫人。第一。一頭曳の・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「辻馬車」
・・・ すると、廂を脱れた日の光は、彼の腰から、円い荷物のような猫背の上へ乗りかかって来た。 三 宿場の空虚な場庭へ一人の農婦が馳けつけた。彼女はこの朝早く、街に務めている息子から危篤の電報を受けとった。それから露・・・ 横光利一 「蠅」
・・・自分の力の極限を経験することは、やがてその極限を乗り超える事の前提である。我を滅し得ず、愛の力の足りないという悔いは、我を滅して大いなる愛の力に動くことの準備である。 自己否定は今の自分にとっては要求である。しかしこの要求が達せられた時・・・ 和辻哲郎 「自己の肯定と否定と」
出典:青空文庫