・・・播州人らしい乗客の顔を、私は眺めまわしていた。でも言葉は大阪と少しも変わりはなかった。山がだんだんなだらかになって、退屈そうな野や町が、私たちの目に懈く映った。といってどこに南国らしい森の鬱茂も平野の展開も見られなかった。すべてがだらけきっ・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・その頃は欧洲行の乗客が多いために三カ月位前から船室を取る申込をして置かねばならなかったのだ。わたくしは果してよくケーベル先生やハーン先生のように一生涯他郷に住み晏如としてその国の土になることができるであろうか。中途で帰りたくなりはしまいか。・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・路端の混雑から考えて、とても腰はかけられまいと思いの外、乗客は七、八人にも至らぬ中、車はもう動いている。 活動見物の帰りかとも思われる娘が二人に角帽の学生が一人。白い雨外套を着た職工風の男が一人、絣りの着流しに八字髭を生しながらその顔立・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・ったまではあっぱれ武者ぶりたのもしかったがいよいよ鞍に跨って顧盻勇を示す一段になるとおあつらえ通りに参らない、いざという間際でずどんと落ること妙なり、自転車は逆立も何もせず至極落ちつきはらったものだが乗客だけはまさに鞍壺にたまらずずんでん堂・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・ 少年は通路に立っている乗客の方を、顎でしゃくって見せた。「あれが、御連中だよ」「それで何かい。その、お前は一体何をやらかしたんだね?」「何もやらかしゃしねえよ。これからやりに行く処なんだ。だが、お前さん、何だぜ、俺と話・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
斜向いの座席に、一人がっしりした骨組みの五十ばかりの農夫が居睡りをしていたが、宇都宮で目を醒した。ステイションの名を呼ぶ声や、乗客のざわめきで、眠りを醒されたという工合だ。窓の方を向いて窮屈に胡座をくんでいた脚を下駄の上に・・・ 宮本百合子 「北へ行く」
・・・台湾旅客機エンボイ機が台北の北方七星山麓で遭難して八名の乗客操縦者全滅したのは三月十二日ごろのことであった。「日航」は当日の暴風と濃霧によって進路測定に誤差が生じたことを遭難の原因として詳細に地理的に報告した。そして「民間航空発展の貴い人柱・・・ 宮本百合子 「市民の生活と科学」
・・・ 五人の乗客は、傾く踏み段に気をつけて農婦の傍へ乗り始めた。 猫背の馭者は、饅頭屋の簀の子の上で、綿のように脹らんでいる饅頭を腹掛けの中へ押し込むと馭者台の上にその背を曲げた。喇叭が鳴った。鞭が鳴った。 眼の大きなかの一疋の蠅は・・・ 横光利一 「蠅」
・・・郊外電車の改札口で、乗客をほったらかし、鋏をかちかち鳴らしながら同僚を追っ馳け廻している切符きり、と云った青年であった。「お話をきくと毎日が大変らしいようですね。」 先ずそんなことから梶は云った。栖方は黙ったまま笑った。ぱッと音立て・・・ 横光利一 「微笑」
・・・ 汽車が来た。乗客は果たして少なかった。あの子供たちは楽をするだろうと思って、私はひとりでほほえんだ。 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫