・・・大分議論をやって大分やられた事を今に記憶している。倫敦で池田君に逢ったのは、自分には大変な利益であった。御蔭で幽霊の様な文学をやめて、もっと組織だったどっしりした研究をやろうと思い始めた。それから其方針で少しやって、全部の計画は日本でやり上・・・ 夏目漱石 「処女作追懐談」
・・・もっとも自分はそれほど気にもかからない、今にどっちからか動きだすだろう、万事はその時のことと覚悟をきめていたが、妻は女だけに心配して、このあいだも長い手紙を重吉にやって、いったいあのことはどうなさるつもりですかと尋ねたら、重吉は万事よろしく・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・察するに今度のような突飛な事をしたのは、今に四十になると思ったからではあるまいか。夫が不実をしたのなんのと云う気の毒な一条は全然虚構であるかも知れない。そうでないにしても、夫がそんな事をしているのは、疾うから知っていて、別になんとも思わなか・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・そのゴサン竹の傍に菖も咲けば著莪も咲く、その辺はなんだかしめっぽい処で薄暗いような感じがしている処であったが、そのしめっぽい処に菖や著莪がぐちゃぐちゃと咲いているということが、今に頭の中に深く刻み込まれておるのはどういうわけかわからん。とに・・・ 正岡子規 「初夢」
・・・しかしそれは文学上の美感が単に感情の上に立って居って決して理窟を入れないという所から、信仰というものも少し方角は違うがやはりそんなのであるまいかと、推し及ぼしただけの話しであって、今にまだ耶蘇教とか仏教とかの信者になる事は出来ない。それなら・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・ぼくは今に働いて自分で金をもうけてどこへでも行くんだ。ブラジルへでも行ってみせる。五月十二日、今日また人数を調べた。二十八人に四人足りなかった。みんなは僕だの斉藤君だの行かないので旅行が不成立になると云ってしきりに責めた。武田先・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・私の冠は、今に野原いちめん、銀色にやって来ます。」 このことばが、もうおみなえしのきもを、つぶしてしまいました。「それは雪でしょう。大へんだ。大へんだ。」 ベゴ石も気がついて、おどろいておみなえしをなぐさめました。「おみなえ・・・ 宮沢賢治 「気のいい火山弾」
・・・すると、勇吉は、炉ばたでちびちび酒を飲みながら、「そげえに若えもん叱るでねえよ、今に何でもはあ、ちゃんちゃんやるようになる、おきいはねんねだごんだ」「何がねんねだ! ひとが聞いたらふき出すっぺえ。ねんね嫁け! お前」 きいはつら・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・すでに愁歎と事がきまればいくらか愁歎に区域が出来るが、まだ正真の愁歎が立ち起らぬその前に、今にそれが起るだろうと想像するほどいやに胸ぐるしいものはない。このような時には涙などもあながち出るとも決ッていず、時には自身の想像でわざと涙をもよおし・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・丁度しわすのもの淋しい夜の事でしたが、吹すさぶその晩の山おろしの唸るような凄い音は、今に思出されます。折ふし徳蔵おじは椽先で、霜に白んだ樅の木の上に、大きな星が二つ三つ光っている寒空をながめて、いつもになく、ひどく心配そうな、いかにも沈んだ・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫