・・・ 二 鏡 ありのままなる浮世を見ず、鏡に写る浮世のみを見るシャロットの女は高き台の中に只一人住む。活ける世を鏡の裡にのみ知る者に、面を合わす友のあるべき由なし。 春恋し、春恋しと囀ずる鳥の数々に、耳側てて木の葉隠・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・しかもただ一歩で、すぐ捉へることができるやうに、虚偽の影法師で欺きながら、結局あの恐ろしい狂気が棲む超人の森の中へ、読者を魔術しながら導いて行く。 ニイチェを理解することは、何よりも先づ、彼の文学を「感情する」ことである。すべての詩の理・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・ 星の世界に住むよりも、そこは住むのに適していないように見えた。 船虫が、気味悪く鳴くのもそこであった。 そこへは、縄梯子をガットにかけて下りるより外に方法はなかった。十五六呎の長さの縄梯子でなければ、底へは届かなかった。 ・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・時雨かな西の京にばけもの栖て久しくあれ果たる家ありけり今は其さたなくて春雨や人住みて煙壁を洩る 狐狸にはあらで幾何か怪異の聯想を起すべき動物を詠みたるもの、獺の住む水も田に引く早苗かな獺を打し翁も・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・地面が、切符売場や信号所の建物のついたまま、わたくしどもの役所の方へまわって来たものですから、わたくしはすぐ宿直という名前で月賦で買った小さな蓄音器と二十枚ばかりのレコードをもって、その番小屋にひとり住むことになりました。わたくしはそこの馬・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
恋愛は、実に熱烈で霊感的な畏ろしいものです。 人間の棲む到る処に恋愛の事件があり、個人の伝記には必ずその人の恋愛問題が含まれてはいますが、人類全般、個人の全生活を通観すると、それらは、強いが烈しいが、過程的な一つの現象・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・これは家康がこの府中の城に住むことにきめて沙汰をしたのが今年の正月二十五日で、城はまだ普請中であるので、朝鮮の使の饗応を本多が邸ですることに言いつけておいたからである。「一応とりただしてみることにいたしましょうか」と、本多はやはり気色を・・・ 森鴎外 「佐橋甚五郎」
・・・実に今は住む百万の蒼生草,実に昔は生えていた億万の生草。北は荒川から南は玉川まで、嘘もない一面の青舞台で、草の楽屋に虫の下方,尾花の招引につれられて寄り来る客は狐か、鹿か、または兎か、野馬ばかり。このようなところにも世の乱れとてぜひもなく、・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ルイザにとって、ロシアは良人の心を牽きつけた美しきアンナの住む国であった。だが、ナポレオンにとっては、ロシアは彼の愛するルイザの微笑を見んがためばかりにさえも、征服せらるべき国であった。左様に彼はルイザを愛し出した。彼が彼女を愛すれば愛する・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・京都に移り住む前には二十年ぐらいも東京で暮らしていたのであるが、かつてそういう気持ちになったことはない。 気になり始めると、いやなのは緑の色調ばかりではなかった。秋になって、樹々の葉が色づいてくる。その黄色や褐色や紅色が、いかにも冴えな・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
出典:青空文庫