・・・それからまた一方には体面上卑吝の名を取りたくないと云う心もちがある。しかも、彼にとって金無垢の煙管そのものは、決して得難い品ではない。――この二つの動機が一つになった時、彼の手は自ら、その煙管を、河内山の前へさし出した。「おお、とらす。・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・――そう云う体面を重ずるには、何年か欧洲に留学した彼は、余りに外国人を知り過ぎていた。「どうしたのですか?」 仏蘭西の将校は驚いたように、穂積中佐をふりかえった。「将軍が中止を命じたのです。」「なぜ?」「下品ですから、―・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・ しかし、僕も男だ、体面上、一度約束したことを破る気はない。もう、人を頼まず、自分が自分でその場に全責任をしょうよりほかはない。 こうなると、自分に最も手近な家から探ぐって行かなければならない。で、僕は妻に手紙を書き、家の物を質に入・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・不味い下宿屋の飯を喰っていても牛肉屋の鍋を突つくような鄙しい所為は紳士の体面上すまじきもののような顔をしていた。が、壱岐殿坂時代となると飛白の羽織を着初して、牛肉屋の鍋でも下宿屋の飯よりは旨いなどと弱音を吹き初した。今は天麩羅屋か何かになっ・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・父は、山宿で一年、張り合いのある日をつづけることができて、女房、子供にも、立派に体面保って、恥を見せずに安楽な死に方を致しました。ええ、信濃の、その山宿で死にました。わしの山は見込みがある、どうだい、身代二十倍になるのだぞ、と威張って、死ん・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・父は、山宿で一年、張り合いのある日をつづけることができて、女房、子供にも、立派に体面保って、恥を見せずに安楽な死に方を致しました。ええ、信濃の、その山宿で死にました。わしの山は見込みがある、どうだい、身代二十倍になるのだぞ、と威張って、死ん・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・実例は帝国劇場の建築だけが純西洋風に出来上りながら、いつの間にかその大理石の柱のかげには旧芝居の名残りなる簪屋だの飲食店などが発生繁殖して、遂に厳粛なる劇場の体面を保たせないようにしてしまった。銀座の商店の改良と銀座の街の敷石とは、将来如何・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・ 夜烏子は山の手の町に居住している人たちが、意義なき体面に累わされ、虚名のために齷齪しているのに比して、裏長屋に棲息している貧民の生活が遥に廉潔で、また自由である事をよろこび、病余失意の一生をここに隠してしまったのである。或日一家を携え・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・それは国にいる時分の体面を保つ事は覚束ないが(国にいれば高等官一等から五つ下へ勘定すれば直ぐ僕の番へ巡とにかくこれよりもさっぱりした家へ這入れる。然るにあらゆる節倹ををしてかようなわびしい住居をしているのはね、一つは自分が日本におった時の自・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・条約改正、内地雑居も僅に数箇月の内に在り、尚お此まゝにして国の体面を維持せんとするか、其厚顔唯驚く可きのみ。抑も東洋西洋等しく人間世界なるに、男女の関係その趣を異にすること斯の如くにして、其極日本に於ては青天白日一妻数妾、妻妾同居漸く慣れて・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
出典:青空文庫