・・・ それから時々、三日、五日、多い時は半月ぐらい、月に一度、あるいは三月に二度ほどずつ、人間界に居なくなるのが例年で、いつか、そのあわれな母のそうした時も、杢若は町には居なかったのであった。「どこへ行ってござったの。」 町の老人が・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・種吉はちょうど氏神の祭で例年通りお渡りの人足に雇われたのを機会に、手を引いた。帰りしな、林檎はよくよくふきんで拭いて艶を出すこと、水密桃には手を触れぬこと、果物は埃をきらうゆえ始終掃塵をかけることなど念押して行った。その通りに心掛けていたの・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・が、今夜は例年の暦屋も出ていない。雪は重く、降りやまなかった。窓を閉めて、おお、寒む。なんとなく諦めた顔になった。注連繩屋も蜜柑屋も出ていなかった。似顔絵描き、粘土彫刻屋は今夜はどうしているだろうか。 しかし、さすがに流川通である。雪の・・・ 織田作之助 「雪の夜」
隣家のS女は、彼女の生れた昨年の旱魃にも深い貯水池のおかげで例年のように収穫があった村へ、お米の買出しに出かけた。行きしなに、誰れでも外米は食いたくないんだから今度買ってきたら分けあって食べましょうと云って乗合バスに乗った・・・ 黒島伝治 「外米と農民」
・・・この一夏の間、わたしは例年の三分の一に当るほども自分の仕事をなし得ず、せめて煩わなかっただけでもありがたいと思えと人に言われて、僅かに慰めるほどの日を送って来たが、花はその間に二日休んだだけで、垣のどこかに眸を見開かないという朝とてもなかっ・・・ 島崎藤村 「秋草」
ことしの七夕は、例年になく心にしみた。七夕は女の子のお祭である。女の子が、織機のわざをはじめ、お針など、すべて手芸に巧みになるように織女星にお祈りをする宵である。支那に於いては棹の端に五色の糸をかけてお祭りをするのだそうで・・・ 太宰治 「作家の手帖」
・・・ H温泉池畔の例年の家に落着いた。去年この家にいた家鴨十数羽が今年はたった雄一羽と雌三羽とだけに減っている。二、三日前までは現在の外にもう二、三羽居たのだがある日おとずれて来たある団体客の接待に連れ去られたそうである。生き残った家鴨ども・・・ 寺田寅彦 「高原」
・・・ そのうちに私はふと近くの町の鍛冶屋の店につるしてあった芝刈り鋏を思い出した。例年とちがってことしは暇である。そして病気にさわらぬ程度にからだを使って、過度な読書に疲れた脳に休息を与えたいと思っていたところであったので、ちょうど適当な仕・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・ 二 庭と中庭との隔ての四つ目垣がことしの夏は妙にさびしいようだと思って気がついて見ると、例年まっ黒く茂ってあの白い煙のような花を満開させるからすうりが、どうしたのかことしはちっとも見えない。これはことしの例外的・・・ 寺田寅彦 「破片」
・・・今年は例年の事を思えば楽な暮であるが、去年や一昨年の苦しかった暮には、却って覚えなかった一種の不安と淋しさを覚えて、膝の上のまじょりか皿と、老い増さる母の顔とを思い比べた。四丁目で電車を下りると皿の包を脇の下へ抱えてみたが工合が悪い。外套の・・・ 寺田寅彦 「まじょりか皿」
出典:青空文庫