・・・いえ、血はもう流れては居りません。傷口も乾いて居ったようでございます。おまけにそこには、馬蠅が一匹、わたしの足音も聞えないように、べったり食いついて居りましたっけ。 太刀か何かは見えなかったか? いえ、何もございません。ただその側の杉の・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・まあ、その傷口はどうしたのだ。」と、電信柱の顔を見てびっくりしました。 このとき、電信柱がいうのに、「ときどき怖ろしい電気が通ると、私の顔色は真っ青になるのだ。みんなこの傷口は針線でつつかれた痕さ。」といいました。 すると、妙な・・・ 小川未明 「電信柱と妙な男」
・・・倒れているのは、まさしくこのあいだの母ぐまであって、子ぐまが、かなしそうに、お母さんの傷口をながめながら、なめては、またなめているではありませんか。 これを見た猟師は、どうして、鉄砲を向けることができましょう。彼は、気づかれないように後・・・ 小川未明 「猟師と薬屋の話」
・・・歳月がたつと、一代の想出も次第に薄れて行ったが、しかし折れた針の先のように嫉妬の想いだけは不思議に寺田の胸をチクチクと刺し、毎年春と秋競馬のシーズンが来ると、傷口がうずくようだった。競馬をする人間がすべて一代に関係があったように思われて、こ・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・栗島は、老人の傷口から溢れた血が、汚れた阿片臭い着物にしみて、頭から水をあびせられたように、着物がべと/\になって裾にしたゝり落ちるのを見た。薄藍色の着物が血で、どす黒くなった。血は、いつまでたっても止まらなかった。 血は、老人がはねま・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 火酒は、戸棚の隅に残っていた、呉は、それを傷口に流しかけた。酒精分が傷にしみた。すると、呉は、歯を喰いしばって、イイイッと頸を左右に慄わした。「何て、縁儀の悪いこっちゃ、一と晩に二人も怪我をしやがって! 貴様ら、横着をして兵タイの・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・負傷した同年兵たちの傷口は、彼が見るたびによくなっていた。まもなく、病院列車で後送になり、内地へ帰ってしまうだろう。――病院の下の木造家屋の中から、休職大佐の娘の腕をとって、五体の大きいメリケン兵が、扉を押しのけて歩きだした。十六歳になった・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・背に、小指のさき程の傷口があるだけであった。 顔は何かに呼びかけるような表情になって、眼を開けたまゝ固くなっていた。「俺が前以て注意をしたんだ、――兎狩りにさえ出なけりゃ、こんなことになりゃしなかったんだ!」 上等看護長は、大勢・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・リリシズムの野を出でて、いばらに裂かれた傷口に布をあてずに、あらわに、陽にさらしている、痛々しさを感じてならない。二月の事件の日、女の寝巻について語っていたと小説にかかれているけれども、青年将校たちと同じような壮烈なものを、そういう筆者自身・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・医者は膝頭に突きささっている鉛の弾を簡単にピンセットで撮み出して、小さい傷口を消毒し繃帯した。娘の怪我を聞いて父親の小使いが医務室に飛び込んで来た。僕は卑屈なあいそ笑いを浮べて、「やあ、どうも。」と言った。僕は、自分が本当に悪いと思って・・・ 太宰治 「雀」
出典:青空文庫