・・・彼はとにかく粟野さんの前に彼自身の威厳を全うした。五百部の印税も月給日までの小遣いに当てるのには十分である。「ヤスケニシヨウカ」 保吉はこう呟いたまま、もう一度しみじみ十円札を眺めた。ちょうど昨日踏破したアルプスを見返えるナポレオン・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・人間はいかにしてその終焉を全うすべきか、人間は必ず泣いて終焉を告げねばならぬものならば、人間は知識のあるだけそれだけ動物におとるわけである。 老病死の解決を叫んで王者の尊を弊履のごとくに捨てられた大聖釈尊は、そのとき年三十と聞いたけれど・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・不義を憎む事蛇蝎よりも甚だしく、悪政暴吏に対しては挺身搏闘して滅ぼさざれば止まなかった沼南は孤高清節を全うした一代の潔士でもありまた闘士でもあった。が、沼南の清節は袍弊袴で怒号した田中正造の操守と違ってかなり有福な贅沢な清貧であった。沼南社・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・今日、多くの職業婦人の出現は、たしかに与えられつゝあることを証するにはちがいないが、果して、女子は、これによって経済上の独立を全うしつゝあるであろうか? 多くの男子に於てすら、まだ生存権の確立を得ないものが女子に於て、それを得らるべき筈・・・ 小川未明 「婦人の過去と将来の予期」
・・・そしてせっかく相合い、心を傾けて愛し合いながら終わりを全うすることができないで別れねばならなくなるのか。仏教では他生の縁というような考え方をするが、かりそめに対すれば、こうしたこともただかりそめの偶然にすぎないけれども、深く思えばいろいろ意・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・ 即ち死ちょうことに伴なう諸種の事情である、其二三を挙ぐれば、天寿を全うして死ぬのでなく、即ち自然に老衰して死ぬのでなくして、病疾其他の原因から夭折し、当然享くべく味うべき生を、享け得ず味わい得ざるを恐るるのである、来世の迷信から其妻子・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・わが能力は、弱きうちに全うせらるればなり。」然ればキリストの能力の我を庇わんために、寧ろ大いに喜びて我が微弱を誇らん。この故に我はキリストの為に、微弱、恥辱、艱難、迫害、苦難に遭うことを喜ぶ。そは我、よわき時に強ければなり。」と言ってみたが・・・ 太宰治 「パウロの混乱」
・・・向けて、物理、地理、歴史等の大概を学び、又家の事情の許す限りは外国の語学をも勉強して、一通りは内外の時勢に通じ、学者の談話を聞ても其意味を解し、自から談話しても、其意味の深浅は兎も角も、弁ずる所の首尾全うして他人の嘲を避ける位の心掛けは、婦・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・の女子教育法に制せられ、遂に社会全般の習慣を成して、舅姑も嫁も共に苦労することなれば、斯く無理なる所望して失敗するよりも、行われざる事は行われずとして他に好手段を求め、人情の根本より割出して家の幸福を全うせんこと我輩の望む所なり。一 文・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・もしも然らずして、相互いに疎んじ相互いに怨んでその情を痛ましむるが如きありては、配偶の大倫を全うすること能わずして、これをその人の不徳と名づけざるを得ず。我輩窃かに案ずるに、かの伊奘諾尊、伊奘冊尊、またはアダム、イーブの如きも、必ずこの夫婦・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
出典:青空文庫