・・・三十分間、兵営までさえ大急でございます。飛んだ長座をいたしました。」 謂うことを聞きも果てず、叔母は少しく急き込みて、「その言は聞いたけれど、女の身にもなって御覧、あんな田舎へ推込まれて、一年越外出も出来ず、折があったらお前に逢いた・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・ そして、少し行くと、それから自分の家へ分れ分れに散らばってしまった。 二 山が、低くなだらかに傾斜して、二つの丘に分れ、やがて、草原に連って、広く、遠くへ展開している。 兵営は、その二つの丘の峡間にあった。・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・早く兵営へ帰って、暖い部屋で休みたかった。――いや、それよりも、内地へ帰って窮屈な軍服をぬぎ捨ててしまいたかった。 彼等は、内地にいる、兵隊に取られることを免れた人間が、暖い寝床でのびのびとねていることを思った。その傍には美しい妻が、―・・・ 黒島伝治 「橇」
全国の都市や農村から、約二十万の勤労青年たちが徴兵に取られて、兵営の門をくゞる日だ。 都市の青年たちは、これまでの職場を捨てなければならない。農村の青年たちは、鍬や鎌を捨て、窮乏と過労の底にある家に、老人と、幼い弟や妹・・・ 黒島伝治 「入営する青年たちは何をなすべきか」
・・・ こういう兵営で二カ年間辛抱しなければならないのかと思うと、うんざりしていた。 私は、内地で一年あまりいて、それからシベリアへやられた。 内地で、兵卒同志で、殴りあいをしたり寝台の下の早馳けなどは、あとから思い出すとむしろ無・・・ 黒島伝治 「入営前後」
・・・ 二 反戦文学は、勿論、兵営や、軍隊生活のみを取扱う文学ではない。資本主義は、次の戦争に備えるために、あらゆるものを利用している。労働者、農民の若者を××に引きずりこんで、誰れ彼れの差別なく同じ××を着せる。人間を・・・ 黒島伝治 「反戦文学論」
一 市街の南端の崖の下に、黒龍江が遥かに凍結していた。 馬に曳かれた橇が、遠くから河の上を軽く辷って来る。 兵営から病院へ、凍った丘の道を栗本は辷らないように用心しい/\登ってきた。負傷した同年兵・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・将校は営外に居住し得、妻帯し得るのに対して、下士以下兵卒は兵営に居住しなければならないし、妻を持ち得ない生活条件から、そういう結果になっていた簡単な事実が、独歩には気がつかなかったものらしい。戦死負傷についても、彼は年少士官のそれに最も多く・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・ 彼等は、ある丘の、もと露西亜軍の兵営だった、煉瓦造りを占領して、掃除をし、板仕切で部屋を細かく分って手術台を据えつけたり、薬品を運びこんだりして、表へは、陸軍病院の板札をかけた。 十一月には雪が降り出した。降った雪は解けず、その上・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・ふと豊橋の兵営を憶い出した。酒保に行って隠れてよく酒を飲んだ。酒を飲んで、軍曹をなぐって、重営倉に処せられたことがあった。路がいかにも遠い。行っても行っても洋館らしいものが見えぬ。三、四町と言った。三、四町どころか、もう十町も来た。間違った・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫