・・・母の手は冷たい脂汗に、気味悪くじっとり沾っていた。 母は彼の顔を見ると、頷くような眼を見せたが、すぐにその眼を戸沢へやって、「先生。もういけないんでしょう。手がしびれて来たようですから。」と云った。「いや、そんな事はありません。・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・その押付けられたものは恐ろしく重い冷たいものだった。何よりも先ず彼れは腹の力の抜けて行くような心持ちをいまいましく思ったがどうしようもなかった。 勿体ぶって笠井が護符を押いただき、それで赤坊の腹部を呪文を称えながら撫で廻わすのが唯一の力・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・格子のある高い窓から、灰色の朝の明りが冷たい床の上に落ちている。一間は這入って来た人に冷やかな、不愉快な印象を与える。鼠色に塗った壁に沿うて、黒い椅子が一列に据えてある。フレンチの目を射たのは、何よりもこの黒い椅子であった。 さて一列の・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 掃清めた広い土間に、惜いかな、火の気がなくて、ただ冷たい室だった。妙に、日の静寂間だったと見えて、人の影もない。窓の並んだ形が、椅子をかたづけた学校に似ていたが、一列に続いて、ざっと十台、曲尺に隅を取って、また五つばかり銅の角鍋が並ん・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ おとよさんは冷たい髪の毛を省作の湯ぼてりの顔へふれる。省作も今は少し気が落ちついている。女の髪の毛が顔へふれた時むらむらとおとよさんがいじらしくなった。おとよさんは柿を省作の袂へ入れ、その手で省作の手をとった。こんな場合を初めて経験す・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・――しかし、妻のからだは、その夜、半ば死人のように固く冷たいような気がした。 二〇 その翌日、吉弥が早くからやって来て、そばを去らない。「よっぽど悋気深い女だよ」と、妻は僕に陰口を言ったが、「奥さん、奥さん」・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・と思って、物に追われて途方に暮れた獣のように、夢中で草原を駆けた時の喜は、いつか消えてしまって、自分の上を吹いて通る、これまで覚えた事のない、冷たい風がそれに代ったのである。なんだか女学生が、今死んでいるあたりから、冷たい息が通って来て、自・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・それだのに、自分たちは、やはり魚や、獣物などといっしょに、冷たい、暗い、気の滅入りそうな海の中に暮らさなければならないというのは、どうしたことだろうと思いました。 長い年月の間、話をする相手もなく、いつも明るい海の面をあこがれて、暮らし・・・ 小川未明 「赤いろうそくと人魚」
・・・いろいろ窮状を談して執念く頼んでみたが、旅の者ではあり、なおさら身元の引受人がなくてはときっぱり断られて、手代や小僧がジロジロ訝しそうに見送る冷たい衆目の中を、私は赤い顔をして出た。もう一軒頼んでみたが、やっぱり同じことであった。いったいこ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・五月だが、寒く、冷たい。「しかし、この娘の方がもっと寒いだろう」 ガタガタ顫えている娘の身ぶるいを感ずると、少しでも早く雨をしのぐところを探してやりたかった。「本当に家へ帰らないの……?」 娘はうなずいて、「帰れません」・・・ 織田作之助 「夜光虫」
出典:青空文庫