・・・わたくしは帳場から火種を貰って来て、楽屋と高座の火鉢に炭火をおこして、出勤する芸人の一人一人楽屋入するのを待つのであった。 下谷から深川までの間に、その頃乗るものといっては、柳原を通う赤馬車と、大川筋の一銭蒸汽があったばかり。正月は一年・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・先日出勤した八千代さんからまで借りてるんだもの。あんな小供のような者まで欺すとは、あんまりじゃアないかね」「だから、だんだん交際人がなくなるんさ。平田さんが来る時分には、あんなに仲よくしていた小万さんでさえ、もうとうから交際ないんだよ」・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・る愚ならずして味あるが如くなれども、最大有力の御用向きかまたは用向きなるものに逢えば、平生の説教も忽ち勢力を失い、銭を費やすも勤めなり、車馬に乗るも勤めなり、家内に病人あるも勤めの身なればこれを捨てて出勤せざるを得ず、終日の来客も随分家内の・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・弁当の足りないことを心のうちに歎じつつ、彼等も人の子らしく、おそろしい電車にもまれて、出勤し、帰宅していると思う。官吏の経済事情は、旧市内のやけのこったところに邸宅をもつことは許さないから、多数の人々は、会社線をも利用して、遙々とたつきのた・・・ 宮本百合子 「石を投ぐるもの」
・・・男女平等と憲法でかかれたとしても、男女が平等に十時間も十一時間も働いて、くたくたになって、かえったら眠って翌朝また出勤して来るだけのゆとりしかなかったら、その男女平等は、男女が平等に人間以下の条件におかれているというにすぎない。 男女が・・・ 宮本百合子 「いのちの使われかた」
・・・ なるほど、女のひとはトレーサアなどやっても、非常に末梢的に使われて、朝出勤するときょうはどこそこで何をやってくれ。そして、明日はと全く別なところへ移動させられ、技術は只迅いとか仕上げが奇麗とかいうところでだけ評価され、決してそのひとが・・・ 宮本百合子 「女の歴史」
・・・ 翌朝、平常どおり八時に出勤して来て凡そ十時頃から、やっと今野を病院へ入れる評定にとりかかった。主任が両手をポケットに入れてやって来て、「どんな工合かね」というから、自分は待ちかねていたと云い、若し病院が面倒なら、斯う斯うい・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・課長の出勤するまでには四十分あるのである。 木村は高い山の一番上の書類を広げて、読んで見ては、小さい紙切れに糊板の上の糊を附けて張って、それに何やら書き入れている。紙切れは幾枚かを紙撚で繋いで、机の横側に掛けてあるのである。役所ではこれ・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・「君が毎日出勤すると、あの門から婆あさんが風炉敷包を持って出て行くというのだ。ところが一昨日だったかと思う、その包が非常に大きいというので、妻がひどく心配していたよ。」「そうか。そう云われれば、心当がある。いつも漬物を切らすので、あ・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・六郎は東京にて山岡鉄舟の塾に入りて、撃剣を学び、木村氏は熊谷の裁判所に出勤したりしに、或る日六郎尋ねきて、撃剣の時誤りて肋骨一本折りたれば、しばしおん身が許にて保養したしという。さて持てきし薬など服して、木村氏のもとにありしが、いつまでも手・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫