・・・ げに初冬の朝なるかな。 田面に水あふれ、林影倒に映れり」十二月二日――「今朝霜、雪のごとく朝日にきらめきてみごとなり。しばらくして薄雲かかり日光寒し」同二十二日――「雪初めて降る」三十年一月十三日――「夜更けぬ。風死し・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・あの初冬の若葉は一年を通して樹木の世界を見る最も美わしいものの一つだ。「冬」はその年も槇の緑葉だの、紅い実を垂れた万両なぞを私に指して見せた。万両の実には白もある。ああいう濃い珠のような光沢は冬季でなければ見られない。あのの樹を御覧と云って・・・ 島崎藤村 「三人の訪問者」
・・・ひとから、注意されないうちは、晩秋、初冬、厳寒、平気な顔して夏の白いシャツを黙って着ている。 私は、腕をのばし、机のわきの本棚から、或る日本の作家の、短篇集を取出し、口を、ヘの字型に結んだ。何か、顕微鏡的な研究でもはじめるように、ものも・・・ 太宰治 「懶惰の歌留多」
・・・眩しくなった眼を室内へ移して鴨居を見ると、ここにも初冬の「森の絵」の額が薄ら寒く懸っている。 中景の右の方は樫か何かの森で、灰色をした逞しい大きな幹はスクスクと立ち並んで次第に暗い奥の方へつづく。隙間もない茂りの緑は霜にややさびて得も云・・・ 寺田寅彦 「森の絵」
・・・ 寺の太鼓が鳴り出した。初冬の日はもう斜である。 わたくしは遂に海を見ず、その日は腑甲斐なく踵をかえした。昭和廿二年十二月 永井荷風 「葛飾土産」
・・・丁度四歳の初冬の或る夕方、私は松や蘇鉄や芭蕉なぞに其の年の霜よけを為し終えた植木屋の安が、一面に白く乾いた茸の黴び着いている井戸側を取破しているのを見た。これも恐ろしい数ある記念の一つである。蟻、やすで、むかで、げじげじ、みみず、小蛇、地蟲・・・ 永井荷風 「狐」
・・・明後日が初酉の十一月八日、今年はやや温暖く小袖を三枚重襲るほどにもないが、夜が深けてはさすがに初冬の寒気が感じられる。少時前報ッたのは、角海老の大時計の十二時である。京町には素見客の影も跡を絶ち、角町には夜を警めの鉄棒の音も聞える。・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・五円札が文鳥と籠と箱になったのはこの初冬の晩であった。 三重吉は大得意である。まあ御覧なさいと云う。豊隆その洋灯をもっとこっちへ出せなどと云う。そのくせ寒いので鼻の頭が少し紫色になっている。 なるほど立派な籠ができた。台が漆で塗って・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・ 明後日が初酉の十一月八日、今年はやや温暖かく小袖を三枚重襲るほどにもないが、夜が深けてはさすがに初冬の寒気が身に浸みる。 少時前報ッたのは、角海老の大時計の十二時である。京町には素見客の影も跡を絶ち、角町には夜を警めの鉄棒の音も聞・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
本郷の金助町に何がしを訪うての帰り例の如く車をゆるゆると歩ませて切通の坂の上に出た。それは夜の九時頃で、初冬の月が冴え渡って居るから病人には寒く感ぜられる。坂を下りながら向うを見ると遠くの屋根の上に真赤な塊が忽ち現れたのでちょっと驚い・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
出典:青空文庫