・・・この青年は、東京の或る大学に籍を有しているのだが、制帽も制服も持っていない。そうして、ジャンパーと、それから間着の背広服を一揃い持っている。肉親からの仕送りがまるで無い様子で、或る時は靴磨きをした事もあり、また或る時は宝くじ売りをした事もあ・・・ 太宰治 「渡り鳥」
・・・憶と今度行って見た軽井沢とで、目についた相違はと言えば、機関車の動力が電気になっていること、停車場前に客待ちのリクショウメンがいなくなって、そのかわりに自動車とバスと、それからいろいろな名前のホテルの制帽を着た、丁寧でいばっている客引きの数・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・中の字を星形にした徽章のついた制帽を冠って、紺のめくらじまの袴をはき脚絆に草鞋がけ、それに久留米絣の綿入羽織という出で立ちであったと思う。そうして毛糸で編んだ恐ろしく大きな長い羽織の紐をつけていたと想像される。それがその頃の田舎の中学生のハ・・・ 寺田寅彦 「初旅」
・・・長靴はいて緑色制帽をかぶった列車技師が、しきりに一台の車の下をのぞいて指図している。棒材がなげ出してある。真黒い鉄の何かを運んで来て雪の中にころがしてある。山羊皮外套を雪の上へぬぎすて農民みたいな男が、車の下に這いこんだ。防寒靴の足の先だけ・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・尚また手間取りますが、紙屋の松屋の表に紙がぶら下っていて、「大学ノートをお買いの方は制服制帽でお出で下さい」とあるそうです。こんな風景は私にとっても未知です。「美しき青春」は神田の方を調べます。本当にさあ、と言いながらペンさんはさかんにアゴ・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・私が最初の小説を発表した時分、和服でまだ帝大の制帽をかぶっていた訳者は、私の仕事について何通かの手紙をくれたし訪問もされた。私はまだごく若くて、その人の専門の学問その他に注意をひかれるより、単純にその人の書く手紙に英語の詩やその他所謂偉大な・・・ 宮本百合子 「生活の道より」
・・・暖かい晩秋の日光が砂丘をぬくめているところへ、一列に並んで腰をおろしていた従弟たちの一人が、やがて急に何を思いついたのか、一寸中学の制帽をかぶり直すとピーッと一声つんざくような口笛を鳴らして、体を横倒しにすると、その砂丘の急な斜面をころころ・・・ 宮本百合子 「青春」
・・・医大の制帽の下の眉の濃い顔の上にも。無帽で、マントをきた瘠せた青年の顔の上にも。しかも、その顔々は、図書館の広間に集り、街頭には無い何かのゆたかさを、それぞれの精神に摂取しようとして、待っているのである。混む省線の中で、どっと乗りこんで来た・・・ 宮本百合子 「図書館」
・・・鞄を小脇に抱えた連中が盛に出入りする、青い技師の制帽をかぶったのも来る。主任は日本の女がモスクワから遠い炭坑を見学に来たのを珍しがって忙しいにもかかわらず、「あなたはどうしてドン・バスを見学する気になったんですか?」と私に向って訊い・・・ 宮本百合子 「ドン・バス炭坑区の「労働宮」」
・・・ トーマス・クック会社名前入りの制帽をかぶった肥っちょの案内人が坐席から立ち上って「ここがオックスフォード通。只今通りすぎつつあるのはロンドンの最もしゃれたレストランの一つ、フラスカテイであります。フラスカテイー!」叫んでいる時にロンド・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
出典:青空文庫