・・・綱利は甚太夫を賞するために、五十石の加増を命じた。兵衛は蚯蚓腫になった腕を撫でながら、悄々綱利の前を退いた。 それから三四日経ったある雨の夜、加納平太郎と云う同家中の侍が、西岸寺の塀外で暗打ちに遇った。平太郎は知行二百石の側役で、算筆に・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・家臣にはそれぞれ新知、加増、役替えなどがあった。中にも殉死の侍十八人の家々は、嫡子にそのまま父のあとを継がせられた。嫡子のある限りは、いかに幼少でもその数には漏れない。未亡人、老父母には扶持が与えられる。家屋敷を拝領して、作事までも上からし・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・十三年四月赤松殿阿波国を併せ領せられ候に及びて、景一は三百石を加増せられ、阿波郡代となり、同国渭津に住居いたし、慶長の初まで勤続いたし候。慶長五年七月赤松殿石田三成に荷担いたされ、丹波国なる小野木縫殿介とともに丹後国田辺城を攻められ候。当時・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・年の暮れに軍功のあった侍に加増があって、甚五郎もその数に漏れなんだが、藤十郎と甚五郎との二人には賞美のことばがなかった。 天正十一年になって、遠からず小田原へ二女督姫君の輿入れがあるために、浜松の館の忙がしい中で、大阪に遷った羽柴家へ祝・・・ 森鴎外 「佐橋甚五郎」
出典:青空文庫