・・・ かえりに区役所前の古道具屋で、青磁の香炉を一つ見つけて、いくらだと云ったら、色眼鏡をかけた亭主が開闢以来のふくれっ面をして、こちらは十円と云った。誰がそんなふくれっ面の香炉を買うものか。 それから広小路で、煙草と桃とを買ってうちへ・・・ 芥川竜之介 「田端日記」
・・・その途中の廊下に待っていて、僕たちは、おとなの諸君には、ビスケットの袋を、少年少女の諸君には、塩せんべいと餡パンとを、呈上した。区役所の吏員や、白服の若い巡査が「お礼を言って、お礼を言って」と注意するので、罹災民諸君はいちいちていねいに頭を・・・ 芥川竜之介 「水の三日」
・・・「あたい、ほんとうはお嫁に行くのよ、役者になれるか、どうだか知れやアしないから」などと、かの女は言わないでもいいことをしゃべった。「どういう人にだ?」「区役所のお役人よ――衣物など拵えて、待っているの」 僕は隣室の状景を想像・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・もし其人が敏感であって、美に対して感激を有していたなら、たとえ其処に転がっている一個の林檎に対しても主観の輝きが見られる訳です。区役所に行って役人に遇ったゞけでも、また巡査に道を聞いただけでも、荷車を引いている労働者を見たゞけでも、また乳呑・・・ 小川未明 「芸術は生動す」
・・・ 施薬をうけるものは、区役所、町村役場、警察の証明書をもって出頭すべし、施薬と見舞金十円はそれぞれ区役所、町村役場、警察の手を通じて手交するという煩雑な手続きを必要とした魂胆に就いては、しばらくおくとしても、あの仰々しい施薬広告はいった・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・淀橋の区役所に勤めていて、ことしは三十四だか五だかになって、赤ちゃんも去年生れたのに、まだ若い者のつもりで、時々お酒を飲みすぎて、しくじりをする事もあるようです。来る度毎に、母から少しずつお金をもらって帰るようです。大学へはいった頃には、小・・・ 太宰治 「千代女」
・・・ 本郷区役所がコンクリートの豆腐に変った。隣りのからたち寺の樹立、これだけは昔のままらしい。 電柱の雀がからたち寺へ飛んで行く。人間の世界は何もかも変って行くが、雀はおそらく千年前の雀と同じであろう。 またある日。 赤門から・・・ 寺田寅彦 「病院風景」
・・・その方と秋山さんの親御が、区役所の兵事課へ突然車をおつけになって、小野某と云う者が、田舎の何番地にいる筈だが、そこへ案内しろと仰ったそうです。兵事課じゃ、何か悪いことでもあったかと吃驚したそうでござえんすがね、何々然云う訳じゃねえ、其小野某・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・なるほど私などは不具に違ない、どうもすくなくとも普通のことを知らない。区役所へ出す転居届の書き方も分らなければ、地面を売るにはどんな手続をしていいかさえ分らない。綿は綿の木のどんな所をどうして拵えるかも解し得ない。玉子豆腐はどうしてできるか・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・役所は、小さな区役所から内閣まで、一度で用のすまないのが普通です。云ってみれば、これまでの私たちには、自分で自分がままならず、自分で自分のことがすっかり分ってもいなかったのです。従って、日本人の返事の曖昧さは、世界でおどろかれる特徴の一つと・・・ 宮本百合子 「新しい躾」
出典:青空文庫