・・・立ち話もそんな場所ではできず、前から部屋を頼んでおいた近くの逢坂町にある春風荘という精神道場へ行こうとすると、新聞の写真班が写真を撮るからちょっと待ってくれと言いました。それで、私たちは、秋山さんが私の肩に手を掛け、私は背の高い秋山さんの顔・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・さりとて継母の提議に従って、山から材木を出すトロッコの後押しに出て、三十銭ずつの日手間を取る決心になったとして、それでいっさいが解決されるものとも、彼には考えられなかった。 初夏からかけて、よく家の中へ蜥蜴やら異様な毛虫やらがはいってき・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ かつて酒量少なく言葉少なかりし十蔵は海と空との世界に呼吸する一年余りにてよく飲みよく語り高く笑い拳もて卓をたたき鼻歌うたいつつ足尖もて拍子取る漢子と変わりぬ。かれが貴嬢をば盗み去ってこの船に連れ来たらばやと叫びし時は二郎もわれも耳をふ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・そんな時、彼等は、頭を下げ、笑顔を作って、看護卒の機嫌を取るようなことを云った。その態度は、掌を引っくりかえしたように、今、全然見られなかった。上等兵の表情には、これまで、病院で世話になったことのないあかの他人であるような意地悪く冷酷なとこ・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 定まって晩酌を取るというのでもなく、もとより謹直倹約の主人であり、自分も夫に酒を飲まれるようなことは嫌いなのではあるが、それでも少し飲むと賑やかに機嫌好くなって、罪も無く興じる主人である。そこで、「晩には何か取りまして、ひさしぶり・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ しばらくするうちに、私は二階の障子のそばで自分の机の前にすわりながらでも、階下に起こるいろいろな物音や、話し声や、客のおとずれや、子供らの笑う声までを手に取るように知るようになった。それもそのはずだ。餌を拾う雄鶏の役目と、羽翅をひろげ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・と手に取る。「どこで目っけたんです? たった一本咲いてたんですか」「どうですか。さっき玉子を持ってきた女の子がくれてったんですの。どこかの石垣に咲いていたんだそうです。初やがね、これはこのごろあんまり暖かいものだから、つい欺されて出・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ら、二十年間の秘めたる思いなどという女学生の言葉みたいなものを、それも五十歳をとうに越えられているあなたに向って使用するのは、いかにもグロテスクで、書いている当人でさえ閉口している程なのですから、受け取るあなたの不愉快も、わかるように思いま・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・若い時、ああいうふうで、むやみに恋愛神聖論者を気どって、口ではきれいなことを言っていても、本能が承知しないから、ついみずから傷つけて快を取るというようなことになる。そしてそれが習慣になると、病的になって、本能の充分の働きをすることができなく・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・りをかけながら左の手を引き退けて行くと、見る見る指頭につまんだ綿の棒の先から細い糸が発生し延びて行く、左の手を伸ばされるだけ伸ばしたところでその手をあげて今できあがっただけの糸を紡錘に通した竹管に巻き取る、そうしておいて再び左手を下げて糸を・・・ 寺田寅彦 「糸車」
出典:青空文庫