・・・ それからMは気軽そうにティッペラリイの口笛を吹きはじめた。 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・ そう答えた店員は、上り框にしゃがんだまま、あとは口笛を鳴らし始めた。 その間に洋一は、そこにあった頼信紙へ、せっせと万年筆を動かしていた。ある地方の高等学校へ、去年の秋入学した兄、――彼よりも色の黒い、彼よりも肥った兄の顔が、彼に・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・が、すぐまた気にも止めないように、軽快な口笛を鳴らしながら、停車場前の宿屋の方へ、太い籐の杖を引きずって行った。 鎌倉。 一時間の後陳彩は、彼等夫婦の寝室の戸へ、盗賊のように耳を当てながら、じっと容子を窺っている彼自身を発見した・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・鋭い口笛のようなうなりを立てて吹きまく風は、小屋をめきりめきりとゆすぶり立てた。風が小凪ぐと滅入るような静かさが囲炉裡まで逼って来た。 仁右衛門は朝から酒を欲したけれども一滴もありようはなかった。寝起きから妙に思い入っているようだった彼・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・大人も口笛を吹いたり何かして、外の犬を嗾ける。そこでこわごわあちこち歩いた末に、往来の人に打突ったり、垣などに打突ったりして、遂には村はずれまで行って、何処かの空地に逃げ込むより外はない。人の目にかからぬ木立の間を索めて身に受けた創を調べ、・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ 運転手は何を思ったか、口笛を高く吹いて、「首くくりでもなけりゃいいが、道端の枝に……いやだな。」 うっかり緩めた把手に、衝と動きを掛けた時である。ものの二三町は瞬く間だ。あたかもその距離の前途の右側に、真赤な人のなりがふらふら・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・低く口笛を鳴すとひとしく、「ツウチャン、ツウチャン。」 と叫べる声、奥深きこの書斎を徹して、一種の音調打響くに、謙三郎は愁然として、思わず涙を催しぬ。 琵琶は年久しく清川の家に養われつ。お通と渠が従兄なる謙三郎との間に処して、巧・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・ たちまち、鋭い口笛のひびきが子供の唇から起こりました。子供は、指を曲げてそれを口にあてると、息のつづくかぎり、吹きならしたのであります。 このとき、紅みがかった、西の空のかなたから、一点の黒い小さな影が雲をかすめて見えました。やが・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
浜辺に立って、沖の方を見ながら、いつも口笛を吹いている若者がありました。風は、その音を消し、青い、青い、ガラスのような空には、白いかもめが飛んでいました。 ここに、また二人の娘があって、一人の娘は、内気で思ったことも、口に出してい・・・ 小川未明 「海のまぼろし」
・・・ 男は口笛を吹いていたが、不意に襖ごしに声をかけて来た。「どないだ? 退屈でっしゃろ。飯が来るまで、遊びに来やはれしまへんか」「はあ、ありがとう」 咽喉にひっ掛った返事をした。二、三度咳ばらいして、そのまま坐っていた。なんだ・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫