・・・……しかしどこかからきこえて来た軽はずみな口笛がいまのソナタに何回も繰り返されるモティイフを吹いているのをきいたとき、私の心が鋭い嫌悪にかわるのを、私は見た。 休憩の時間を残しながら席に帰った私は、すいた会場のなかに残っている女の人の顔・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
・・・私は海の方に向き直って口笛を吹きはじめました。それがはじめは無意識にだったのですが、あるいは人影になにかの効果を及ぼすかもしれないと思うようになり、それは意識的になりました。私ははじめシューベルトの「海辺にて」を吹きました。ご存じでしょうが・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・ 一匹の犬が豊吉の立っているすぐそばの、寒竹の生垣の間から突然現われて豊吉を見て胡散そうに耳を立てたが、たちまち垣の内で口笛が一声二声高く響くや犬はまた駆け込んでしまった。豊吉は夢のさめたようにちょっと目をみはって、さびしい微笑を目元に・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・小山はさも軽々と答えた。 四囲は再びひっそりとなった。小山は口笛を吹きながら描いている。自分は思った、むしろこの二人が意味ある画題ではないかと。 国木田独歩 「小春」
・・・彼は、本部の二階からガーリヤの家の方を眺めて、口笛で、「赤い夕日」を吹いたりした。 春が来た。だが、あの一個中隊が、どこでどうして消えてしまったのか、今だにあとかたも分らなかった。 吉永は、丘の上の兵営から、まだ、すっかり雪の解けき・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・――十一月七日の朝「起床」のガラン/\が鳴ったせつな、監房という監房に足踏みと壁たゝきが湧き上がった。独房の四つの壁はムキ出しのコンクリートなので、それが殷々とこもって響き渡った。――口笛が聞える。別な方からは、大胆な歌声が起る。 俺は・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・龍介は入口の硝子戸によりかかりながら、家の中へちょっと口笛を吹いてみた。が、出てこない。その時、龍介はフト上りはなに新しい爪皮のかかった男の足駄がキチンと置かれていたのを見た。瞬間龍介はハッとした。とんでもないものを見たような気がした。そこ・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・博士は、ときどき、思い出しては、にやにや笑い、また、ひとり、ひそかにこっくり首肯して、もっともらしく眉を上げて吃っとなってみたり、あるいは全くの不良青少年のように、ひゅうひゅう下手な口笛をこころみたりなどして歩いているうちに、どしんと、博士・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ ことしの晩秋、私は、格子縞の鳥打帽をまぶかにかぶって、Kを訪れた。口笛を三度すると、Kは、裏木戸をそっとあけて、出て来る。「いくら?」「お金じゃない。」 Kは、私の顔を覗きこむ。「死にたくなった?」「うん。」 ・・・ 太宰治 「秋風記」
・・・おれは口笛を吹いて歩き出した。 その晩はよく寝た。子供のように愉快な夢を見て寝た。翌朝目を覚まして、鼻歌を歌いながら、起きて、鼻歌を歌いながら、顔を洗って、朝食を食った。なんだか年を逆さに取ったような心持がしている。おれは「巴里へ行く汽・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
出典:青空文庫