･･･人間はどこまで口腹のために、自己の尊厳を犠牲にするか？――と云うことに関する実験である。保吉自身の考えによると、これは何もいまさらのように実験などすべき問題ではない。エサウは焼肉のために長子権を抛ち、保吉はパンのために教師になった。こう云う･･･ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
･･･幸ひっそりとした一構えに、人の気はいもない様子を見届けて、麺麭と葡萄酒を盗み出して、口腹の慾を充分充たした上、村外れへ出ると、眠くなって、うとうとしている所へ、村の女が通りかかる。腹が張って、酒の気が廻って、当分の間ほかの慾がなくなった乞食･･･ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
･･･――昔しあるお大名が二人目黒辺へ鷹狩に行って、所々方々を馳け廻った末、大変空腹になったが、あいにく弁当の用意もなし、家来とも離れ離れになって口腹を充たす糧を受ける事ができず、仕方なしに二人はそこにある汚ない百姓家へ馳け込んで、何でも好いから･･･ 夏目漱石 「私の個人主義」
･･･すでに食らいすでに飲むときは、口腹の慾、もって満足すべしといえども、なお足らざるものあり。衣服なかるべからず、住居なかるべからず。衣食住居すでに備わり、一家もって安楽なり。なお足らざるものあり。隣人のつきあいなかるべからず、社会の交際なかる･･･ 福沢諭吉 「教育の目的」
･･･思うに此英語夫婦の者共は、転宅の事を老人に語るも無益なり、到底その意に任せて左右せしむ可き事に非ずとて、夫婦喃々の間に決したることならんなれども、是れぞ所謂老人の口腹を養うを知て其情を養うの道を知らざる者なり。不敬不埒と言うよりも常識を失う･･･ 福沢諭吉 「新女大学」
･･･――然し、兎も角、自分達の口腹の慾は満たされて行くのだし……必要なら、誰かがするだろう。――眼を逸し、物懶に居隅に踞っていようとするのである。 幾百年の過去から、恐ろしい伝統、宿命を脱し切れずにいる、所謂為政者等は、彼等の人間的真情の枯･･･ 宮本百合子 「アワァビット」
出典：青空文庫
