・・・誰か外へ来たと見えて、戸を叩く音が、突然荒々しく聞え始めました。 二 その日のかれこれ同じ時刻に、この家の外を通りかかった、年の若い一人の日本人があります。それがどう思ったのか、二階の窓から顔を出した支那人の女の子を・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・その星も皆今夜だけは、…… 誰かの戸を叩く音が、一年後の現実へ陳彩の心を喚び返した。「おはいり。」 その声がまだ消えない内に、ニスののする戸がそっと明くと、顔色の蒼白い書記の今西が、無気味なほど静にはいって来た。「手紙が参り・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ おい、船の胴腹にたかって、かんかんと敲くからかんかんよ、それは解せる、それは解せるがかんかん虫、虫たあ何んだ……出来損なったって人間様は人間様だろう、人面白くも無えけちをつけやがって。而して又連絡もなく、お前っちは字を読む・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・と嬉しそうに乗出して膝を叩く。しばらくして、「ここはどこでございますえ。」とほろりと泣く。 七兵衛は笑傾け、「旨いな、涙が出ればこっちのものだ、姉や、ちっとは落着いたか、気が静まったか。」「ここはどっちでしょう。」「むむ・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ 持主の旅客は、ただ黙々として、俯向いて、街樹に染めた錦葉も見ず、時々、額を敲くかと思うと、両手で熟と頸窪を圧える。やがて、中折帽を取って、ごしゃごしゃと、やや伸びた頭髪を引掻く。巻莨に点じて三分の一を吸うと、半三分の一を瞑目して黙想し・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・お千代が、ポンポンと手を叩く、省作は振り返って出てくる。「省さん、暢気なふうをして何をそんなに見てるのさ」「何さ立派なお堂があんまり荒れてるから」「まあ暢気な人ねい、二人がさっきからここへきてるのに、ぼんやりして寺なんか見ていて・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・とん、とん、と誰か戸を叩く者がありました。年よりのものですから耳敏く、その音を聞きつけて、誰だろうと思いました。「どなた?」と、お婆さんは言いました。 けれどもそれには答えがなく、つづけて、とん、とん、と戸を叩きました。 お婆さ・・・ 小川未明 「赤い蝋燭と人魚」
・・・ぬのであるが、近ごろメッキリ得意も附いて、近辺の大店向きやお屋敷方へも手広く出入りをするので、町内の同業者からはとんだ商売敵にされて、何のあいつが吉新なものか、煮ても焼いても食えねえ悪新だなぞと蔭口を叩く者もある。 けれど、その実吉新の・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・文子は女中と二人暮しでもう寝ていましたが、表の戸を敲く音を旦那だと思って明けたところ、まるで乞食同然の姿をした男がしょぼんと立っていたので、びっくりしたようでした。しかし、やっと私だということが判ると、やはりなつかしそうに上げてくれました。・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
一 凍てついた夜の底を白い風が白く走り、雨戸を敲くのは寒さの音である。厠に立つと、窓硝子に庭の木の枝の影が激しく揺れ、師走の風であった。 そんな風の中を時代遅れの防空頭巾を被って訪れて来た客も、頭巾を脱げば師走の顔であった。・・・ 織田作之助 「世相」
出典:青空文庫