・・・と、人々は思っていました。 また、ひづめの音が聞こえました。こんどは、またこちらから、あちらへもどっていくのです。「姫は、どこへいったのじゃ。」と、叫ぶ声が、闇の中でしました。 やがて、そのひづめの音が、聞こえなくなると、後には・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・ と飛び上り、まさかと思って諦めていた時など、思わず万歳と叫ぶくらいだったが、もう第八競走までに五つも単勝を取ってしまうと、不気味になって来て、いつか重苦しい気持に沈んで行った。すると、あの見知らぬ競馬の男への嫉妬がすっと頭をかすめるのだっ・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・と峻の家の近所にいる女の子は我勝ちに「ハリケンハッチのオートバイ」と叫ぶ。「オートバ」と言っている児もある。 三階の旅館は日覆をいつの間にか外した。 遠い物干台の赤い張物板ももう見つからなくなった。 町の屋根からは煙。遠い山から・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ 自分の入って来たのを見て、いきなり一人の水兵が水雷長万歳と叫ぶと、そこらにいた者一斉に立って自分を取り巻き、かの大杯を指しつけた。自分はその一二を受けながら、シナの水兵は今時分定めて旅順や威海衛で大へこみにへこんでいるだろう、一つ彼奴・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・護送に行く看護長が廊下から叫ぶと、防寒服で丸くなった傷病者がごろ/\靴を引きずって出てきた。 橇には、五人ずつ、或は六人ずつ塒にかたまる鶏のように防寒服の毛で寒い隙間を埋めて乗りこんだ。歩けない者は、看護卒の肩にすがり、又は、担架にのせ・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・さてはいよいよこれなりけりと心勇みて、疾く嚮導すべき人を得んと先ず観音堂を索むるに、見渡す限りそれかと覚しきものも見えねばいささか心惑う折から、寒月子は岨道を遥かに上り行きて、ここに堂あり堂ありと叫ぶ。嬉しやと己も走り上りて其処に至れば、眼・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・と、向う端の方で雑役が叫ぶ。そしたら、食器箱の蓋の上にワッパと茶碗を二つ載せ、片手に土瓶を持って、入口に立って待っている。飯の車が廊下を廻わってくるのだ。扉が開いたら、それを差出す。――円るい型にハメ込んだ番号の打ってある飯をワッパに、味噌・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・と叫ぶ夫の声は既に上ずって、空虚な感じのものでした。 私は起きて寝巻きの上に羽織を引掛け、玄関に出て、二人のお客に、「いらっしゃいまし」 と挨拶しました。「や、これは奥さんですか」 膝きりの短い外套を着た五十すぎくらいの・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・のあの「叫ぶがごとき色彩」などと比べると、昔の手織り縞の色彩はまさしく「歌う色彩」であり「思考する色彩」であるかと思われるのである。 化学的薬品よりほかに薬はないように思われた時代の次には、昔の草根木皮が再びその新しい科学的の意義と価値・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・ と、だれかが叫ぶ。するとまた、「ホントだ、あいつこんにゃく屋なんだネ」 と、違った声がいう。私は勇気がくじけて、みんなまできいてることが出来ない。こんにゃくを売ることも忘れて、ドンドンいまきた道をあと戻りして逃げてしまう。・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
出典:青空文庫