・・・粋にもモダンにも向く肉感的な女であった。二 早くから両親を失い家をなくしてしまった私は、親戚の家を居候して歩いたり下宿やアパートを転々と変えたりして来たためか、天涯孤独の身が放浪に馴染み易く、毎夜の大阪の盛り場歩きもふと放浪・・・ 織田作之助 「世相」
・・・顔を伏せている子守娘が今度こちらを向くときにはお化けのような顔になっているのじゃないかなど思うときがあった。――しかし待っていた為替はとうとう来た。自分は雪の積った道を久し振りで省線電車の方へ向った。 二 お茶の水か・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・と神崎の方を向く。神崎はただ「フフン」と笑ったばかり、盃をあげて、ちょっと中の模様を見て、ぐびり飲んだ。朝田もお構いなく、「現に今日も、斯うだ、僕が縁とは何ぞやとの問に何と答えたものだろうと聞くと、先生、この円と心得て」と畳の上に指先で・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・しかし一たん見まいと決心したからには意地が出て振り向くのが愧かしく、また振り向くと向かないのとで僕の美術家たり得るや否やの分かれ目のような気がして来た。 またこうも思った、見る見ないは別問題だ、てんであんな音が耳に入るようでそれが気にな・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・ 脇へよけようと右を向くと、軍医が看護長に、小声で、「橇は、うまく云ってかえして呉れんか。」 そう云っているのが聞えた。彼は、軍医の顔をみつめた。そこに何か深い意味があるように感じた。軍医は、白い顔を傷病者の視線から避け、わざと・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・しかしその日は塾の同僚を訪うよりも、足の向くままに、好きな田圃道を歩き廻ろうとした。午後に、彼は家を出た。 岩と岩の間を流れ落ちる谷川は到るところにあった。何度歩いても飽きない道を通って、赤坂裏へ出ると、青麦の畠が彼の眼に展けた。五度熟・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・目をくるくる廻して、首がどっちへでも向くのよ。好いじゃないか。このコルクのピストルはマヤに遣るの。(コルクを填こわくって。わたしがお前さんを撃ち殺すかと思ったの。まさかお前さんがそんなことを思うだろうとは、わたし思わなくって・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・何せ、借りが利くので、つい若松屋のほうに、足が向く。 はじめは僕の案内でこの家へ来たれいの頭の禿げた林先生すなわち洋画家の橋田氏なども、その後は、ひとりでやって来てこの家の常連の一人になったし、その他にも、二、三そんな人物が出来た。・・・ 太宰治 「眉山」
・・・私は別に自分を吝嗇だとも思っていないが、しかし、どこの酒場にも借金が溜って憂鬱な時には、いきおいただで飲ませるところへ足が向くのである。戦争が永くつづいて、日本にだんだん酒が乏しくなっても、そのひとのアパートを訪れると、必ず何か飲み物があっ・・・ 太宰治 「メリイクリスマス」
・・・ とそっちを向くと、 「君の近作を読みましたよ」と言って、笑っている。 「そうですか」 「あいかわらず、美しいねえ、どうしてああきれいに書けるだろう。実際、君を好男子と思うのは無理はないよ。なんとかいう記者は、君の大きな体格・・・ 田山花袋 「少女病」
出典:青空文庫