・・・さて吾々の活力が外界の刺戟に反応する方法は刺戟の複雑である以上固より多趣多様千差万別に違ないが、要するに刺戟の来るたびに吾が活力をなるべく制限節約してできるだけ使うまいとする工夫と、また自ら進んで適意の刺戟を求め能うだけの活力を這裏に消耗し・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・り、ともかくも人間が自転車に附着している也、しかも一気呵成に附着しているなり、この意味において乗るべく命ぜられたる余は、疾風のごとくに坂の上から転がり出す、すると不思議やな左の方の屋敷の内から拍手して吾が自転行を壮にしたいたずらものがある、・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・ 吾が精神を篇中の人物に一図に打ち込んで、その人物になりすまして、恋を描き愛を描き、もしくは他の情緒を描くのは熱烈なものができるかも知れぬが、いかにも余裕がない作が現れるに相違ない。写生文家のかいたものには何となくゆとりがある。逼ってお・・・ 夏目漱石 「写生文」
・・・ 目の廻る程急がしい用意の為めに、昼の間はそれとなく気が散って浮き立つ事もあるが、初夜過ぎに吾が室に帰って、冷たい臥床の上に六尺一寸の長躯を投げる時は考え出す。初めてクララに逢ったときは十二三の小供で知らぬ人には口もきかぬ程内気であった・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・この響き、この群集の中に二年住んでいたら吾が神経の繊維もついには鍋の中の麩海苔のごとくべとべとになるだろうとマクス・ノルダウの退化論を今さらのごとく大真理と思う折さえあった。 しかも余は他の日本人のごとく紹介状を持って世話になりに行く宛・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・然らばすなわち吾が党、今日の盛際に遇うも、古人の賜に非ざるをえんや。 そもそも洋学のもって洋学たるところや、天然に胚胎し、物理を格致し、人道を訓誨し、身世を営求するの業にして、真実無妄、細大備具せざるは無く、人として学ばざるべからざるの・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾の記」
・・・無心の小児が父を共にして母を異にするの理由を問い、隣家には父母二人に限りて吾が家に一父二、三母あるは如何などと、不審を起こして詰問に及ぶときは、さすが鉄面皮の乃父も答うるに辞なく、ただ黙して冷笑するか顧みて他を言うのほかなし。即ちその身の弱・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
出典:青空文庫