・・・しかし肉はいつの間にか皮の下で消え失せてしまって、その上の皮ががっしりした顴骨と腮との周囲に厚い襞を拵えて垂れている。老人は隠しの中の貨幣を勘定しながら、絶えず唇を動かして独言を言って、青い目であちこちを見て、折々手を隠しから出さずに肘を前・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・けれども、此処で、周囲の自然は、スバーの言葉の足りなさを補い、彼女に代って物を云いました。小川の囁き、村の人達の声、船頭の歌や木々のさわめき、小鳥の囀り等は皆混り合い、彼女の心のときめきと一つのものになりました。其等の音は、スバーの落付かな・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・彼等の考え出すいろいろな革新は僕の周囲に死の機会を増し、彼等の説くところは僕を死に導き、または彼等の定める法律は僕に死を与えるのだ。」 織田君を殺したのは、お前じゃないか。 彼のこのたびの急逝は、彼の哀しい最後の抗議の詩であった。・・・ 太宰治 「織田君の死」
・・・ポルジイが一度好いと云った女の周囲には、耳食の徒が集まって来て、その女は大幣の引手あまたになる。それに学問というものを一切していないのが、最も及ぶべからざる処である。うぶで、無邪気で、何事に逢っても挫折しない元気を持っている。物に拘泥しない・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・その友だちの植えた檜の木ももう蔭をなしていたが、最近行った時には、周囲の垣がこわれて、他の墓との境界がなくなっていた。――『東京の三十年』より―― 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・ 指頭大の穴が三つばかり明いて、その周囲から喰み出した繊維がその穴を塞ごうとして手を延ばしていた。 そんな事はどうでもよいが、私の眼についたのは、この灰色の四十平方寸ばかりの面積の上に不規則に散在しているさまざまの斑点であった。・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・繰り返して曰う、諸君、我々は生きねばならぬ、生きるために常に謀叛しなければならぬ、自己に対して、また周囲に対して。 諸君、幸徳君らは乱臣賊子となって絞台の露と消えた。その行動について不満があるとしても、誰か志士としてその動機を疑い得る。・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・今日不忍池の周囲は肩摩轂撃の地となったので、散歩の書生が薄暮池に睡る水禽を盗み捕えることなどは殆ど事実でないような思いがする。然し当時に在っては、不忍池の根津から本郷に面するあたりは殊にさびしく、通行の人も途絶えがちであった。ここに雁の叙景・・・ 永井荷風 「上野」
・・・屋根は栗幹で葺いて周囲には蓆を吊った。いつしか高くなった蜀黍は其広く長い葉が絶えずざわついて稀には秋らしい風を齎した。腹の底まで凉しくする西瓜が太十の畑に転がった。太十は周囲の蜀黍に竹を縛りつけて垣根を造った。日はまだ非常に暑かった。怖る怖・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・塊まらぬ間に吹かるるときには三つの煙りが三つの輪を描いて、黒塗に蒔絵を散らした筒の周囲を遶る。あるものは緩く、あるものは疾く遶る。またある時は輪さえ描く隙なきに乱れてしまう。「荼毘だ、荼毘だ」と丸顔の男は急に焼場の光景を思い出す。「蚊の世界・・・ 夏目漱石 「一夜」
出典:青空文庫