・・・老婆は髪を振り乱しその大釜の周囲を何やら呪文をとなえながら駈けめぐり駈けめぐり、駈けめぐりながら、数々の薬草、あるいは世にめずらしい品々をその大釜の熱湯の中に投げ込むのでした。たとえば、太古より消える事のなかった高峯の根雪、きらと光って消え・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・伝えられたこの物語には、それ自身にすでにどことなくエキゾティックな雰囲気がつきまとっているのであるが、それがこの一風変わった西欧詩人の筆に写し出されたのを読んでみると実に不思議な夢の国の幻像を呼び出す呪文ででもあるように思われて来る。物語の・・・ 寺田寅彦 「小泉八雲秘稿画本「妖魔詩話」」
・・・という。 自分の子供の時分、郷里ではそういう場合に「おらのおととのかむ――ん」という呪文を唱えて頭上に揺曳する蚊柱を呼びおろしたものである。「おらのおとと」はなんのことかわからないが、この「む――ん」という声がたぶん蚊の羽根にでも共鳴し・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・換言すればある特殊な雰囲気をよび出すための呪文のような効果を示すのではないかと思われる。しかし、この呪文は日本人のごとき特異な自然観の所有者に対してのみ有効な呪文である。自然を論理的科学的な立場から見ることのみを知ってそれ以外の見方をするこ・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・またそれらの言葉を耳に聞き目に見ることによって、その中に圧縮された内容を一度に呼び出し、出現させる呪文の役目をつとめるものである。そういう意味での「象徴」なのである。 こういう不思議な魔術がなかったとしたら俳句という十七字詩は畢竟ある無・・・ 寺田寅彦 「俳句の精神」
・・・魔除鼠除けの呪文、さては唐竹割の術より小よりで箸を切る伝まで十銭のところ三銭までに勉強して教える男の武者修行めきたるなど。ちと人が悪いようなれども一切只にて拝見したる報いは覿面、腹にわかに痛み出して一歩もあゆみ難くなれり。近きベンチへ腰をか・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・まずわたしがここで第一服の呪文をうたう。するとここらの空気にな。きらきら赤い波がたつ。それをみんなで呑むんだな。」 悪魔のお医者はとてもふしぎないい声でおかしな歌をやりました。「まひるの草木と石土を 照らさんことを怠りし 赤きひかり・・・ 宮沢賢治 「ひのきとひなげし」
・・・そしてびっくりして地にひれふして何だかわけのわからない呪文をとなえ出しました。 ネネムはまるでからだがしびれて来ました。そしてだんだん気が遠くなってとうとうガーンと気絶してしまいました。 ガーン。 それからしばらくたってネネムは・・・ 宮沢賢治 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」
・・・ 男のひとにしろ、そういう社会的な障害にぶつかった場合、やはりとかく不満や居心地わるさの対照に女をおいて、女らしさという呪文を思い浮べ、女には女らしくして欲しいような気になり、その要求で解決がつけば自分と妻とが今日の文明と称するもののう・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・は舞上り舞下りて闇黒の中に無形の譜を作りて死を讚美し祝し―― おどり狂う――大鎌をうちふりうちふりてなぎたおされんものをあさりつつ死は音もなく歩み頭蓋の縫目より呪文をとなえ底なき瞳は世のすべてをす・・・ 宮本百合子 「片すみにかがむ死の影」
出典:青空文庫