・・・信濃川からとれるようです。味噌汁の豆腐が、ひどく柔かで上等だったので、新潟の豆腐は有名なのですか、と女中さんに尋ねたら、さあ、そんな話は聞いて居りません、はい、と答えました。はい、という言いかたに特徴があります。片仮名の、ハイという感じであ・・・ 太宰治 「みみずく通信」
・・・家族のひとたちの様に味噌汁、お沢庵などの現実的なるものを摂取するならば胃腑も濁って、空想も萎靡するに違いないという思惑からでもあろうか。食事をすませてから応接室に行き、つッ立ったまま、ピアノのキイを矢鱈にたたいた。ショパン、リスト、モオツア・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・蒸されるような暑苦しい谷間の坂道の空気の中へ、ちょうど味噌汁の中に入れた蓴菜のように、寒天の中に入れた小豆粒のように、冷たい空気の大小の粒が交じって、それが適当な速度でわれわれの皮膚を撫でて通るときにわれわれは正真正銘の涼しさを感じるらしい・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・ところが同じ郷里の親類でも家によると切餅の代りに丸めた餅を用い汁を味噌汁にした家もあった。ある家では牡蠣を入れたのを食わされて胸が悪くて困った記憶がある。高等学校時代に熊本の下宿で食った雑煮には牛肉が這入っていた。土佐の貧乏士族の子の雑煮に・・・ 寺田寅彦 「新年雑俎」
・・・膳に向かえば大野味噌汁。秋琴楼に仮寓の昔も思い出さしむ。勘定をすませ丸く肥え太りたる脊低き女に革鞄提げさして停車場へ行く様、痩馬と牝豚の道行とも見るべしと可笑し。この豚存外に心利きたる奴にて甲斐々々しく何かと世話しくれたり。間もなく駆け来る・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・毎朝起きるときまりきった味噌汁をぶっかけた飯を食ってセオドライトやポールをかついで出かける。目的の場所へ着くと器械をすえてかわるがわる観測を始める。藤野は他人の番の時には切り株に腰をかけたり草の上にねころんだりしていつものように・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・ところが、茶漬をかきこんだり、味噌汁を吸ったりすることになると、とかく故障が起りがちである。いわんや、餅や、飴などは論外である。 これは何事を意味するか。 入歯を、発明し、改良して来た西洋人が、もしわれわれと同じ食物を食って生きてい・・・ 寺田寅彦 「鑢屑」
・・・鍋の破片へ飯をくれたが食わない。味噌汁をかけてやったらぴしゃぴしゃと甞めた。暫くすると小さいながら尾を動かしてちょろちょろと駈け歩いた。お石が村を立ってから犬は太十の手に飼われた。太十は従来農家の附属物たる馬ととの外には動物は嫌いであった。・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・「何だい御みおつけと云うのは」「味噌汁の事さ。東京の婆さんだから、東京流に御みおつけと云うのだ。まずその汁の実を何に致しましょうと聞かれると、実になり得べき者を秩序正しく並べた上で選択をしなければならんだろう。一々考え出すのが第一の・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・や選者を恨む歌の主命婦より牡丹餅たばす彼岸かな短夜や同心衆の川手水少年の矢数問ひよる念者ぶり水の粉やあるじかしこき後家の君虫干や甥の僧訪ふ東大寺祇園会や僧の訪ひよる梶がもと味噌汁をくはぬ娘の夏書かな鮓つけてや・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
出典:青空文庫