・・・ もしあの時空腹のまま、畢波羅樹下に坐っていられたら、第六天の魔王波旬は、三人の魔女なぞを遣すよりも、六牙象王の味噌漬けだの、天竜八部の粕漬けだの、天竺の珍味を降らせたかも知らぬ。もっとも食足れば淫を思うのは、我々凡夫の慣いじゃから、乳糜を・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・なんでも晩年味噌を買いに行き、雪上がりの往来で転んだ時にも、やっと家へ帰ってくると、「それでもまあ褌だけ新しくってよかった」と言ったそうである。 二〇 学問 僕は小学校へはいった時から、この「お師匠さん」の一人息子に・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・前の晩、これを買う時に小野君が、口をきわめて、その効用を保証した亀の子だわしもある。味噌漉の代理が勤まるというなんとか笊もある。羊羹のミイラのような洗たくせっけんもある。草ぼうきもあれば杓子もある。下駄もあれば庖刀もある。赤いべべを着たお人・・・ 芥川竜之介 「水の三日」
・・・ 仁右衛門がこの農場に這入った翌朝早く、与十の妻は袷一枚にぼろぼろの袖無しを着て、井戸――といっても味噌樽を埋めたのに赤あかさびの浮いた上層水が四分目ほど溜ってる――の所でアネチョコといい慣わされた舶来の雑草の根に出来る薯を洗っていると・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・小玉石、を唄いながら、黒雲に飛行する、その目覚しさは……なぞと、町を歩行きながら、ちと手真似で話して、その神楽の中に、青いおかめ、黒いひょっとこの、扮装したのが、こてこてと飯粒をつけた大杓子、べたりと味噌を塗った太擂粉木で、踊り踊り、不意を・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・「お膳にもつけて差し上げましたが、これを頭から、その脳味噌をするりとな、ひと噛りにめしあがりますのが、おいしいんでございまして、ええとんだ田舎流儀ではございますがな。」「お料理番さん……私は決して、料理をとやこう言うたのではないので・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・心配そうに煙管を支いて、考えると見ればお菜の献立、味噌漉で豆腐を買う後姿を見るにつけ、位牌の前へお茶湯して、合せる手を見るにつけ、咽喉を切っても、胸を裂いても、唇を破っても、分れてくれとは言えなかった。先刻も先刻、今も今、優しいこと、嬉しい・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・シカモ鰍の味噌煮というような下宿屋料理を小言云い云い奇麗に平らげた。が、率ざ何処かへ何か食べに行こうとなるとなかなか厳ましい事をいった。三日に揚げずに来るのに毎次でも下宿の不味いものでもあるまいと、何処かへ食べに行かないかと誘うと、鳥は浜町・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・古参の丁稚でもそれと大差がないらしく、朋輩はその小遣いを後生大事に握って、一六の夜ごとに出る平野町の夜店で、一串二厘のドテ焼という豚のアブラ身の味噌煮きや、一つ五厘の野菜天婦羅を食べたりして、体に油をつけていましたが、私は新参だから夜店へも・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・不逞不逞しいが、泣き味噌の武田さんのすすり泣きがどこかに聴えるような小説であった。「田舎者東京を歩く」というような文章を書いていた。芯からの都会人であった武田さんが、自分で田舎者と言わねばならぬような一年の生活が、武田さんを殺してしまったの・・・ 織田作之助 「武田麟太郎追悼」
出典:青空文庫