・・・――喜三郎はこう云って、この喜ばしい話を終った。そんな心もちは甚太夫にもあった。二人はそれから行燈を囲んで、夜もすがら左近や加納親子の追憶をさまざま語り合った。が、彼等の菩提を弔っている兵衛の心を酌む事なぞは、二人とも全然忘却していた。・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・全く僕は蟄虫が春光に遇っておもむろに眼を開くような悦ばしい気持ちでいることができる。僕は今不眠症にも犯されていず、特別に神経質にもなっていない。これだけは自分に満足ができる。 ただし蟄眠期を終わった僕がどれだけ新しい生活に対してゆくこと・・・ 有島武郎 「片信」
・・・「おたがいに、この世の中から、美しい、喜ばしいことを知りましょう。私は、あなたが、私のために乱暴者からなぐられて、血を流されたことを一生忘れません。」「いえ、いつかも、いいましたように、けっしてあなたのためではありません。たとえその・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・晴れやかな陽の顔も、またあのやわらかな感じのする雲の姿も、みつばちのおとずれも、その楽しいことの一つでありましたが、その中にもいちばん喜ばしい心の踊ることは、美しいちょうのどこからか、飛んできて止まることでありました。 この道ばたに咲い・・・ 小川未明 「くもと草」
・・・……悲しい時に於ても……また喜ばしい時に於ても……のみならず、日常の生活を真に味い得る人のみに限って、人生は、始めて夢でない、空想でないと言い得る。たゞ、生活を考え、感じ、味い得る人に限って、生存の意義が明かにせられたのである。故に、たとえ・・・ 小川未明 「夕暮の窓より」
・・・そうだとすれば濫造の噂が高ければ高いほど目出度い喜ばしいことだと云わなければならないのではないかと思われる。 審査委員が如何に私情ないしは私利のためにもせよ、学位授与の価値の全然ないような低能な著者の、全然無価値かあるいは間違った論文に・・・ 寺田寅彦 「学位について」
・・・ 近ごろわが国でも土俗学的の研究趣味が勃興したようで誠に喜ばしいことと思われるが、一方ではまたここに例示したような不思議な田園詩も今のうちにできるだけ収集し保存しまたそれを現在の詩の言葉に翻訳しておくことも望ましいような気がするのである・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・幸いに近年は農林省方面でも海洋観測の必要を痛切に認識して系統的な調査もようやくその緒に就いたようで、誠に喜ばしい次第である。 ともかくも、こういう大切な観測事業をその日暮しその年暮しになりやすい恐れのある官僚政治の管下から完全に救出して・・・ 寺田寅彦 「新春偶語」
・・・ただ近来少数ではあるがまじめで立派な連句に関する研究的の著書が現われるのは暗夜に一抹の曙光を見るような気がして喜ばしい。しかし結局連句は音楽である。音楽は演奏され聞かれるべきものである。連句の音楽はもう少し広く日本人の間に演奏され享楽されて・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・しかし同時にその弱さの素因がいくらか科学的につきとめられて従ってその療法の見当がつくとすれば、それはまたこの上もない心強い喜ばしい事である。 実際自分のようなものでも、健康のぐあいがよくて精力の満ちているような場合に、このような変則な笑・・・ 寺田寅彦 「笑い」
出典:青空文庫