・・・それを嗅ぐと、急に原は金沢の空を思出した。畠を作ったり、鶏を飼ったりした八年間の田園生活、奈何にそれが原の身にとって、閑散で、幽静で、楽しかったろう。原はこれから家を挙げて引越して来るにしても、角筈か千駄木あたりの郊外生活を夢みている。足る・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・そこらいちめん黄色い煙がもうもうとあがってな、犬はそれを嗅ぐとくるくるくるっとまわって、ぱたりとたおれる。いや、嘘でねえ。お前の顔は黄色いな。妙に黄色い。われとわが屁で黄色く染まったに違いない。や、臭い。さては、お前、やったな。いや、やらか・・・ 太宰治 「貨幣」
・・・色白くふっくりふくれた丸ぽちゃの顔、おとがい二重、まつげ長くて、眠っているときの他には、いつもくるくるお道化ものらしく微笑んでいる真黒い目、眼鏡とってぱしぱし瞬きながら嗅ぐようにして雑誌を読んでいる顔、熊の子のように無心に見えて、愛くるしく・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・この匂いを嗅ぐと、少年時代に遊び歩いた郷里の北山の夏の日の記憶が、一度に爆発的に甦って来るのを感じる。 宿に落着いてから子供等と裏の山をあるいていると、鶯が鳴き郭公が呼ぶ。落葉松の林中には蝉時雨が降り、道端には草藤、ほたるぶくろ、ぎぼし・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・この雰囲気は今の文化的日本の中では容易に見出されないもので、ただ古い古い昔の物語でも読む時に、わずかにその匂だけを嗅ぐ事の出来るものである。 始め西洋音楽でも聞くようなつもりで、やや緊張した心持で聴いているうちに、いつとなしにこの不思議・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・その感覚的なものをまた眼で見る色や形、耳で聴く音や響、鼻で嗅ぐ香、舌でしる味などに区別する。かくのごとく区別されたものを、まただんだんに細かく割って行く。分化作用が行われて、感覚が鋭敏になればなるほどこの区別は微精になって来ます。のみならず・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ ついでまた朋友親戚等より、某国産の銘葉を得て、わずかに一、二管を試みたる後には、以前のものはこれを吸うべからざるのみならず、かたわらにこれを薫ずる者あれば、その臭気を嗅ぐにも堪えず。もしも強いて自からこれを用いんとすれば、ただ苦痛不快・・・ 福沢諭吉 「教育の目的」
・・・その匂いを深く鼻の穴に吸いこんで嗅ぐと、半歳近く湯にいれられぬ皮膚が、ほのかにうるおい、食慾も出るように感じるのであった。 商売 帳簿を立て並べた長い台に向って、土間に、白キャラコの覆いのよごれた粗末な腰かけが三四脚おい・・・ 宮本百合子 「日記」
・・・途中まで聞いていた誰やらの演説が、ただ雑音のように耳に聞えて、この島田に掛けた緋鹿子を見る視官と、この髪や肌から発散するを嗅ぐ嗅覚とに、暫くの間自分の心が全く奪われていたのである。この一刹那には大野も慥かに官能の奴隷であった。大野はその時の・・・ 森鴎外 「独身」
・・・ 私は彼らを愛した自分から腐敗の臭気を嗅ぐように思った。そこには生の真面目は枯れかかり、核心に迫る情熱は冷えかかっていた。生の冒険のごとく見えたのは、遊蕩者の気ままな無責任な移り気に過ぎなかった。生の意義への焦燥と見えたのは、虚名と喝采・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫