・・・しばらくして、宿の廊下が、急にどたばた騒がしくなり、女中さんたちの囁き、低い笑声も聞える。私は、兄の叱咤の言よりも、そのほうに、そっと耳をすましていた。ふっと一言、聴取出来た。私は、敢然と顔を挙げ、「提燈行列です。」と兄に報告した。・・・ 太宰治 「一燈」
・・・それは二月の末の事で、毎日大風が吹きすさび、雨戸が振動し障子の破れがハタハタ囁き、夜もよく眠れず、私は落ちつかぬ気持で一日一ぱい火燵にしがみついて、仕事はなんにも出来ず、腐りきっていたら、こんどは宿のすぐ前の空地に見世物小屋がかかってドンジ・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・どこへでも二人が並んで顔を出すと、人が皆囁き合う。男はしっかりして危げがなく、気力が溢れて人を凌いで行く。女はすらりとして、内々少し太り掛けていると云う風の体附きである。まるで娘のように見える。手なんぞは極小くて、どうしてあれで大金を払い出・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・燧の鉄と石の触れあう音、迸る火花、ホクチの燃えるかすかな囁き、附け木の燃えつくときの蒼白な焔の色と亜硫酸の臭気、こうした感覚のコムプレッキスには祖先幾百年の夢と詩が結び付いていたような気がする。 マッチのことは「スリツケ」と云った。「摺・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
・・・ 西行も、芭蕉も、ピエール・ロチも、ラフカヂオ・ハアンも、各その生涯の或時代において、この響、この声、この囁きに、深く心を澄まし耳を傾けた。しかし歴史はいまだかつて、如何なる人の伝記についても、殷々たる鐘の声が奮闘勇躍の気勢を揚げさせた・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・しかしこの音楽はワグネルの組織ともドビュッシイの法式とも全く異ってその土地に生れたものの心にのみ、その土地の形象が秘密に伝える特種の芸術の囁きともいうべきであったろう。 已に半世紀近き以前一種の政治的革命が東叡山の大伽藍を灰燼となしてし・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・と囁き、一太の背中を門の中に押してやった。母親がそれは小さい声で本気に「さ、いいかい」と云うので、一太は少しこわいようになった。そして、一生懸命な心持で見知らぬ門を入って行った。 暫くして一太が出て来ると、母親が遠くの電信柱のところ・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・この観念と並立していて、私という人物がこれまで中途半端にしか生活もせず考えもせずに暮して来たという自嘲自責で身をよじっているとき、内心その姿に手をかけてなぐさめてとなり、合理づける囁きとして存在している、もう一つの観念がある。 それは、・・・ 宮本百合子 「観念性と抒情性」
・・・ 近所の人がどうしたのだろうと囁き合ったが、吊台の中の人は誰だか分からなかった。「いずれ号外が出ましょう」などと云うものもあったが、号外は出なかった。 その次の日の新聞を、近所の人は待ち兼ねて見た。記事は同じ文章で諸新聞に出ていた。・・・ 森鴎外 「鼠坂」
・・・ 日が落ちて部屋の灯が庭に射すころ、会の一人が隣席のものと囁き交しながら、庭のま垣の外を見詰めていた。垣裾へ忍びよる憲兵の足音を聞きつけたからだった。主宰者が憲兵を中へ招じ入れたものか、どうしたものかと栖方に相談した。「いや、入れち・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫