・・・ 彼は国境を離れると、すぐに一行に追いついた。一行はその時、ある山駅の茶店に足を休めていた。左近はまず甚太夫の前へ手をつきながら、幾重にも同道を懇願した。甚太夫は始は苦々しげに、「身どもの武道では心もとないと御思いか。」と、容易に承け引・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・――その時、段の隅に、油差に添えて燈心をさし置いたのである。――「和郎はの。」「三里離れた処でしゅ。――国境の、水溜りのものでございまっしゅ。」「ほ、ほ、印旛沼、手賀沼の一族でそうろよな、様子を見ればの。」「赤沼の若いもの、・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ その年は八月中旬、近江、越前の国境に凄じい山嘯の洪水があって、いつも敦賀――其処から汽車が通じていた――へ行く順路の、春日野峠を越えて、大良、大日枝、山岨を断崕の海に沿う新道は、崖くずれのために、全く道の塞った事は、もう金沢を立つ時か・・・ 泉鏡花 「栃の実」
一 このもの語の起った土地は、清きと、美しきと、二筋の大川、市の両端を流れ、真中央に城の天守なお高く聳え、森黒く、濠蒼く、国境の山岳は重畳として、湖を包み、海に沿い、橋と、坂と、辻の柳、甍の浪の町を抱い・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・「驚きました、実に驚きましたな……三島一と言いながら、海道一の、したたかな鼠ですな。」 自動車は隧道へ続けて入った。「国境を越えましたよ。」 と主人が言った。「……時に、お話につれて申すようですけれども、それを伺って・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・ ある冬の日のこと、子供は、村はずれに立って、かなたの国境の山々をながめていますと、大きな山の半腹に、母の姿がはっきりと、真っ白な雪の上に黒く浮き出して見えたのであります。これを見ると、子供はびっくりしました。けれど、このことを口に出し・・・ 小川未明 「牛女」
大きな国と、それよりはすこし小さな国とが隣り合っていました。当座、その二つの国の間には、なにごとも起こらず平和でありました。 ここは都から遠い、国境であります。そこには両方の国から、ただ一人ずつの兵隊が派遣されて、国境を定めた石碑・・・ 小川未明 「野ばら」
・・・山岳美に恵まれた日本に生れながら、しかも子供の時より国境の山々を憧憬したものを。なぜ足の達者なうちに踏破を試みなかったか、ここにも無性が祟っている。畳の上に臥転んで、山の案内記を読み、写真をながめて空想に耽ることが、一層楽しかったからでもあ・・・ 小川未明 「春風遍し」
・・・ 三人は、かしの木の下に腰を下ろして、西南の国境にある金峰仙の方を見ながら、まだあの高い山の嶺には不死の泉があるだろうかというようなことを話して空想にふけりました。星晴れのした夜の空に高い山のとがった嶺が黒くそびえて見えます。その嶺の上・・・ 小川未明 「不死の薬」
・・・このあいだここへやってきた緑色の蛾は、夏のはじめのころ、なんでもおおぜいが群れを造って、あの国境の高い山々を越えて七十里も、八十里も、あちらの方から旅をしてきたといっていました。まだ冬になるまでにはだいぶ間のあることです。いろいろおもしろい・・・ 小川未明 「冬のちょう」
出典:青空文庫